桜散る頃 外章
   -櫻花異聞-

 

 時の迷宮 地の狭間 中編

 

 

 

紗羅は荊州城の一室に居た

曹操が荊州城に入城してから数刻が経つ

 

カチャリと2本の剣を眺めた

 

 倚天と青釭

 

曹操が作らせた双子剣

 

元々、倚天は曹操

青釭は紗羅の母・静嵐が持っていたが、静嵐死後、曹操の手に戻った

静嵐が生きて居るとき、曹操が静嵐に贈ったらしいが、詳しい経緯は知らない

 

今は両方とも紗羅の手の内にある

 

ギュッと紗羅は2本の双子剣を握り締めた

 

「母様・・・・・」

 

もう、顔も覚えていない 母・静嵐

父の事は何一つ教えてくれなかった

 

何故、曹操と出会ったのかも・・・

 

静嵐が曹操とどういう関係だったのかも・・・・

 

ただ、曹操は静嵐を執拗に捜したらしい

見つけた時は、時既に遅かったが・・・

 

何故、そこまでして曹操が静嵐を捜したのか・・・

それすらも分からない

 

ただ、曹操が静嵐を捜して、紗羅を見つけた

 

あの日 あの時 全ての歯車が狂った

 

あの日 あの時 曹操に出会わなければ・・・・今は違っていたのかもしれない

そして、この双子剣を差し出された時、受け取らなければ――――

 

「母様・・・・紗羅は血で穢れてしまいました・・・」

 

優しかった母・・・

大陸一の踊り子だった母・静嵐

どうして、死んでしまったのですか・・・?

 

 

 

 『あなたは・・・生きなさい』

 

 

 

死に際に、そう言い残した静嵐

 

どうして・・・そんな事・・・・・・

 

「母様・・・母様・・・・・っ!」

 

紗羅は寝台の上でギュッと丸くなって、嗚咽を零した

 

泣くものかと・・・何度も思った

曹操に屈服するものかと・・・何度も思った

 

でも――――

 

 叶わない

 敵わない

 

 

あの男には・・・かなわない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何?曹仁と曹洪がやられただと?」

 

曹操はピクッと眉間に皺を寄せて、その報告を聞いていた

 

「はい。新野城はもぬけの殻。そこへ入城した曹仁様一行を火の手が襲ったとの事。劉備は樊城に逃げ込んだとの報告にあります」

 

「・・・・・・諸葛亮の策略か・・・」

 

「・・・恐らくは。曹仁様と曹洪様まはそのまま、樊城へ劉備を追ったとの事」

 

「ふん。中々足掻く」

 

曹操はにやりと笑い、顎をしゃくった

 

「曹叡」

 

「はっ」

 

曹叡が前に出る

 

「お前も行ってやれ」

 

「はっ」

 

曹叡が手を合わせて一礼し、部屋を退出していく

曹操はフンと笑い、不敵な笑みを浮かべた

 

「さぁ・・・劉備・・・どうするかのう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ◆      ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「孔明」

 

劉備は樊城の一室で、軍議を開いていた

 

「曹操は追撃してくるだろうか?」

 

「おそらくは」

 

諸葛亮がにべも無くそう答える

 

「そうか・・・」

 

劉備は少し考え

 

「孔明。それはここ樊城で曹軍の総攻撃を持ちこたえる事はは出来るだろうか?」

 

「いいえ。それは難しいかと。ここ樊城は守りには適しておりません。直ぐに襄陽城に逃げましょう。襄陽城の方が防ぐに足ります」

 

「うむ だが・・・」

 

劉備は難しそうに顔を顰め

 

「だが、ここに連れて来た民はどうしたものか」

 

「殿をお慕い申し上げて付いて来ている者たちです。たとえ足手まといになろうと連れて行くべきでしょう」

 

「よし、分かった。直ぐに行動に移そう」

 

そうして、劉備一行は民を連れて襄陽城に向かったのであった

だが、襄陽城は既に曹軍の指揮下にあり、蔡瑁が攻撃してきたのである

劉備は、結局、遠いが荊州一の要害 江陵城に向かって民を連れ陸路を行く事になる

ここから長く厳しい道が待ち受けているのであった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

江陵城へ向かう中関羽が劉備に話しかけてきた

 

「兄者」

 

「雲長。どうした?」

 

「こうも動きが遅くては曹操軍に追いつかれてしまいますぞ」

 

劉備は少し、困った様な顔をして

 

「しかし、女子供もいる。これ以上早くは進めぬ」

 

「ですが、ここで曹操の軍に襲われでもしたら・・・ここは民をここに置き、我々だけで江陵に向かい守りを固めては如何なものかと」

 

だが、劉備はぷるっと首を横に振った

 

「いや、この者達は私を慕って付いて来ている。あたかも子が親を慕う様なものだ。何故捨てて行かれる」

 

「だが、敵に殲滅されては元も子もありません!」

 

「国は人を持って基を成すという。私は国を失ったがその基はまだ我々にある。民とともに死ぬるならそれもまた本望」

 

「・・・うむ。それ程のご決心であらせられますか」

 

「関羽将軍」

 

そこへ諸葛亮が関羽を呼び止めた

 

「将軍には兵五百を引き連れ江夏の劉琦殿の元へ急ぎ、つぶさに戦況を告げ援軍を頼んで欲しい」

 

「成る程。援軍ですか」

 

関羽は一礼し、すぐさま、兵五百騎を連れ江夏へと向かった

これが吉と出るか凶と出るか・・・

 

「頼みましたよ・・・将軍」

 

去り行く、関羽を眺めながら諸葛亮は呟いた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ◆      ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よし、この新しい布令を出し、従わせよ」

 

「はっ」

 

「治安の方は大丈夫であろうな?」

 

「はい」

 

「荊州の旧臣達は上手く散らして配置せよ」

 

「はっ」

 

ふーと曹操は、頬杖を付き、一息付いた

荊州に来て、やる事が山の様にある

治安・税・臣の配置

 

曹操は休まる暇が無かった

それが、治めるという事なのだと分かってはいるが・・・

 

曹操は小さくため息を付き、ゆったりと背もたれにもたれ掛かった

 

「所で、税金の問題は片付いたか?」

 

「税金の問題より、もっと急がねばならぬ事がございます」

 

臣の1人が、煮え切らない言い方で、曹操に意見をしてきた

 

「・・・申してみよ」

 

「・・・・劉備をこのまま逃がしてしまうおつうもりですか?」

 

ピクッと曹操が反応する

眉を顰め、意見してきた臣を見据えた

 

「その気は無いが?」

 

「では、何故・・・・・・」

 

「劉備は難民を抱えておる。いつでも追いつけよう」

 

「だが、もし江陵城に逃げ込まれでもしたら・・・」

 

臣は引き下がらなかった

むしろ、更に意見を募った

 

「蔡瑁が言うには、江陵城は金銀食糧の蓄えがあり、荊州一の要塞だと言うではありませんか!」

 

「・・・・・・・・ふむ」

 

曹操は少し考え ゆっくりと目を開けた

 

「この地を治めるのも重要だが・・・当の敵、劉備を討つのも重要だ。よし、直ぐに支度を。劉備を追撃せい!劉備が江陵城に入る前に、江陵城も押さえるのだ!」

 

「はっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ◆      ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それは、険しい道のりだった

民を連れて行くと言う事がどういう事か・・・

進軍速度は遅く、このままではいつ曹操軍に追いつかれてもおかしくなかった

そうなれば、結果は見えている

早急な、援軍か、江陵城到着が必要だった

 

「孔明。江陵まで後、どのくらいだ?」

 

「まだ、道半ばです」

 

「・・・ううむ。先に江夏に援軍を求めに行った雲長もあれっきり音沙汰が無い」

 

劉備は少し考え

 

「孔明、お主様子を見に行ってはくれぬか?」

 

「・・・そうですね。どんな事情があるか知れませんが・・・それしか今は方法がありませんね」

 

こうして、孔明も兵五百を連れて江夏に向かったのであった

 

 

 

 

 

 

 

 

夜半過ぎ――――

 

それは最悪の結末へと向かおうとしていた

曹操軍がついに劉備軍に追いついたのである

 

 

ドドドドドドド・・・・

 

地響きにも似た馬蹄の轟きが、北の方角から聞こえて来る・・・・

そして遂に、砂塵の中から、敵はその姿を現わしたのである

 

その数5千騎 曹操自らが率いる、高速騎馬軍団であった

遭遇地点は、当陽の直ぐ南――――「長阪」の地である

 

「兄者!敵襲だ」

 

張飛が劉備の天幕に駆け込んでくる

 

「・・・とうとう追いつかれたか・・・・」

 

劉備はすぐさま甲冑を身に付け、天幕を出た

張飛の後を追って、馬を繋いでいる所に行く

 

「劉備だ!!逃がすな!」

 

敵兵に見つかった

だが、張飛がそれを阻んだ

 

蛇矛を薙ぎ払い、敵兵を瞬殺する

 

「そうはいくか!おめぇらの相手は俺様だ!」

 

ヒュッと蛇矛を突き出し、兵の喉下にドスッと突き刺す

そのまま、振り回し、敵を薙ぎ払った

追尾しそうな兵を一掃する

 

劉備は、後ろを張飛に任せて、馬を走らせた

 

辺りを見ると、民草が叫びながら逃げ惑っている

 

「・・・・・・・・・・」

 

劉備は苦渋の思いで、馬を走らせた

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲を圧倒し、津波の如く姿を現わした人馬の群れは、明らかに「江陵」占拠を目的とする、超高速速度を誇る軽騎兵だけの軍団であった

無論、天下最強を謳われる”虎豹騎”が其の主力である

曹操の騎馬軍団は先ず、10万以上の難民と5千余の荷駄にぶち当った

進撃も儘成らぬ人間の大洪水である

 

邪魔者は踏み潰せとばかり、必然的に難民への虐殺が始まった

阿鼻叫喚の中、曹操軍は情け容赦無く、前へ前へと斬り進んでゆく

やがて難民は蜘蛛の子を散らす様に街道脇に逃げ惑い、進撃路が開けて来る

其処へ目掛けて騎馬隊が疾駆する

だが少し進むと又、難民の群れが眼の前一杯に現われる

踏み潰し、斬り倒し、突き殺して道を開ける

その繰り返しが、果てし無く続く・・・・

 

「劉備の奴は、未だ見えぬのか?」

 

大渋滞で進めぬ曹操は仕方無く後方で馬を下りて状況を観望して居た

 

「はっ、なにぶん此の有様。然とは確認できませぬ。」

 

「ふん。奴め考えおったわ。民衆を隠れ蓑に使うとは、とんだ喰わせ者よの! 虐殺の汚名を此方に押し付けて置いて、己だけは逃げおおす心算か。まぁよい。いずれ決着つけてくれよう。それより先ずは”江陵”じゃ!急がせよ!!」

 

もう、辺り一帯は難民と雑兵とが秩序も無く入り乱れ、揉み合い圧し合い、当ても無く右往左往逃げ惑うばかりである

 

やがて――――劉備軍、発見!!

斥候騎兵が注進に及んだ

 

「何処に居った?」

 

「1部は此処より東へ向かっております。」

 

「・・・東へか・・・?南へは?」

 

「一部は向かっておるやも知れませぬが、然とは致しませぬ。」

 

「ふむ、散り散りじゃな?劉備めは東へ逃げる魂胆だな・・・ よしこの際じゃ。ひと捻りにしてやろうぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殿!ご無事でしたか!」

 

将の1人が劉備を見つけ、馬を寄せてくる

 

「他の者は?」

 

「はっ。散り散りになって曹操軍と戦っています」

 

「それから、殿にお伝えせねばならぬ事が・・・趙将軍が、心変わりをし曹操の軍門に下りました」

 

「バカを申せ!!」

 

劉備は激怒した

趙雲は劉備の忠臣だった

今は、劉備の奥方や子を守らせている

 

「しかし・・・曹操軍に駆け込むのをこの目でみました」

 

「趙雲は男の中の男ぞ!私を見捨てて逃げる様な人物では無い! もし趙雲が裏切ったとしたら私は此処で死んで見せる!」

 

「・・・・・・・・・申し訳ありません」

 

将はそう言うしか無かった

劉備は辺りを見回し、深くため息を付いた

雲長、翼徳、趙雲。今どこで、どうしているのだ・・・・・・!?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その頃、趙雲は1人敵陣の中を突っ切っていた

 

この頃趙雲は劉備の主騎を務めていた

本来の任務は、常に主君の傍らに侍し、劉備の身だけを警護する近衛隊長である筈

日頃から甘夫人や阿斗を、自分の肉親以上に大切に慈しんで来ていた

その献身的とも言える言動は、単に主君の家族だからと云う義務感だけでは無く、彼の溢れる様な愛情によるものであった

関羽や張飛とは立場も心根も異なった、特別に強い絆を抱いている

樊城脱出以後も、片時も側を離れず世話を見、守り通して来ていた

故におのずと、この逃避行に於いても趙雲の任務は、劉備の家族を守り通す事とされていた

 

――――然し今、幼い阿斗を抱えた夫人達の車駕は只でさえ足が遅かった

その上、お付きの侍女達の車駕が警護を兼ねて取り囲んでいる為に、一段と速度が減殺されてしまっていた

悪い事には、大群衆の洪水にも呑み込まれてしまい、殆んど立ち往生状態となり果てていた

 

そんな目立つ車駕は、敵騎兵の眼には格好の獲物として映るから、次々に突き進んで来る

趙雲は其れをいち早く発見しては、未然に阻止して倒さねばならない

だが時間の経過と共に、趙雲が頼りとする味方の従騎も今や僅か数騎に激減してしまっていた

車駕の何台かは横転させられ、中から遺骸が転がり出ている物も数知れ無い

夫人の車駕には、かろうじて十数名の歩兵が張り付いて居てくれるのが、せめてもの救いであった・・・

が、趙雲自身はどうしても車駕を離れて闘わざるを得無い場面が多くなってきた

 

予想外の大乱戦となった此の「長阪」の地では、流石の趙雲も、思いの儘に車駕に寄り添い続ける事は至難であった

そして、しつこい敵兵を突き伏せ奮戦している間に、いつしか一行を見失ってしまったのである

 

「阿斗様は何処だ!?阿斗様を知らぬか!!」

 

劉備は独りでも逃げられる

だが、2歳の赤児はそうはいかない

甘夫人の胸に抱かれている筈だ

47歳で主君がやっと授かった一粒種である

そして事実上は、趙雲自身が父親代わりに育て上げて来た愛児であった

 

「阿斗様!奥方様!!」

 

敵の返り血を浴びて探し廻る趙雲の形相は、この修羅場でさえもギョッとさせられるものだった

 

「もはや、敵の手に落ちたと思われます。来る途中、井戸の在る作業小屋付近で、それらしき一行を見た者があります。其処は既に、敵の制圧下となっています・・・・・」

 

将の1人がそう呟く

趙雲はギリッと歯を噛み締め

 

趙子龍の全身が憤怒と化した

 

阿斗は劉備の一粒種である

それは単に主君の子で在るのみならず、此処に群れ集う全ての者達の『希望の星』でも在るのだ

又、甘夫人は”遅れて来た者”同士、常に労わり合い、互いを解り合える無二のお人である・・・・・・

それが今、命を絶たれようとしている

此の世から消え去ろうとしている

 

「我が命に代えても、奪い還して見せる!!」

 

趙雲は、 近くに居た腹心の1騎を従えると、もと来た道を駆け戻った

行く手には難民が犇めき合っているが、その先は敵の群れなす真っ只中である

 

擦れ違い様、敵騎兵の血飛沫が飛ぶ

流れに逆らう1筋の赤心

名も無い従騎も豪胆である

2騎の跡に残るのは、ただ敵兵の遺骸と血糊の河ばかり・・・

だが趙雲は、闇雲に猛り狂って居るのでは無かった

その眼光は冷静な鷹の眼差である

人群れの中、敵騎の集団は避けている

命惜しまずといえども、兵理を忘れ去る趙雲では無かった

手薄な敵、単騎を狙って進む。

 

「趙雲様~!」

 

2度聞こえた

声はするが姿が見えない

 

「何処だ!?」

 

必死に眼を凝らして見廻すと・・・涸れた小川の太鼓橋の下から、侍女と覚しき人影が懸命に手を振り続けて居た

馬腹を蹴って乗り着けると

 

「――――趙雲殿・・・!!」

 

甘夫人が居た

 

「奥方様!!」

 

趙雲は馬上から降り、甘夫人に駆け寄った

 

「阿斗と・・・・・・はぐれてしまいました・・・・・・」

 

涙が吹き零こぼれ、今にも舌を噛みそうな、悲痛な母の顔が戻っていた

 

「誰の手に在りますのか?」

 

「若いし、いざとなれば走れるからと言って、糜夫人が抱いていてくれたのですが、車駕が倒された時に離れ離れになって・・・・・・」

 

「分かりました。阿斗様は必ず、この私がお連れ致します!奥方様はこの者に同乗し、先に行って下さい。此処からなら、未だ大丈夫、追い付けます」

 

幸いにして、遅れて来た歩兵20人ばかりを付け加える事が出来た

 

「趙雲殿、頼みましたよ・・・!!」 

 

凍み透るばかりの真心である

それが今、何よりの餞であった

 

「暮れ暮れも頼んだぞ――――」

 

とだけ腹心に言い残すと・・・・

 

「御免!!」 

 

趙雲は、再び馬上の修羅と化した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記憶に残る、井戸の在る風景だけが頼りである

 

――――頼む、居てくれ!!

 

念じつつ1騎、2騎、3騎と、趙雲の朱槍は、馬上の敵どもを突き落としていく

駆けては突き、突き伏せては駆ける

 

――――と、ポカリと・・・嘘の様な静寂が出現した

10数棟の作業小屋の中庭であった

信じられぬ事だが、この大激震の阿鼻の中、無人の空間に踏み込んだのだ

 

「――――あれは・・・!!」

 

農作業小屋の一角に、見覚えのある車駕が横転し、無残に破壊されていた

 

「――――くっ!」

 

無事であれと念じつつ、急行する

 

だが其処には阿斗も糜夫人の姿も無く、ただ数名の侍女達が深手を負い、息も絶え絶えに崩折れて居るばかりであった

何人かは既に、血溜りの中に事切れていた

 

「阿斗様は!?阿斗様はどうした!?」

 

「・・・敵の手に落ちて・・・・はと・・・糜方様が・・・・・・気丈にも抱えられて・・・・あちらの方へ・・・」

 

と指さす力も無い

 

【糜夫人】は、重臣糜竺の妹であり、甘夫人より若く気丈な”正妻”であった

今から12年前―――劉備は呂布に下邳城を急襲され、甘夫人は捕えられ、単騎で逃げ出す醜態を演じ尾羽打ち枯らして逃げ込んだ劉備に、兄の糜竺が奴僕2千人・金銀財貨

提供して、その勢力を盛り返させた

その折に妹の彼女を夫人として差し出したのであった

そして大富豪の令嬢として正妻に迎えられた

甘夫人は妾であり飽くまで側室なのであった

その立場は、阿斗を産んだ今も変わらないが、両夫人は姉妹の如く仲睦まじかった

共に夫に見捨てられ、呂布や曹操の捕虜生活の辛酸も共有して来ていた

 

「この近くに井戸は無かったか!?」

 

「はい・・・確か、あの・・・・うら・・て・・・・」

 

顔見知りの侍女が、苦痛の底から最期の言葉を残して息絶えた

 

「済まぬが、参るぞ・・・」

 

せめて亡骸を横たえ伸ばしてやると、趙雲は再び騎乗して踵を返した

 

 

 

 

 

――――在った!

 

無人となっている作業小屋群の中央に、確かに石の井戸が存在した

 

どうか居てくれ!

 

祈りつつ近づく

 

と、その石積みの陰から、女物の裳裾が見えた

 

「奥方様か!」

 

飛び降り、覗き込めば・・・其処には、袈裟懸けに深手を負って、井戸に凭れる痛ましい糜夫人の姿が在った

 

「――――ああ、趙雲殿!・・・よかった・・・・・阿斗様を、阿斗様を!」

 

いざとなれば、阿斗もろとも、一緒に井戸の中へ飛び込む覚悟であったのであろう

血染めの腕の中には、阿斗がにこにこ笑っていた

 

「阿斗様、御無事でしたか!!」

 

思わず安堵の息を漏らす

修羅の中、初めて趙雲に人間らしい表情が戻っていた

 

「奥方様。よくぞ守り通して下された。御一行から眼を切ったはこの子龍一生の不覚。お許し下され。さ、急いで私の馬にお乗り下さい。相乗りして参りましょう!」

 

糜夫人の胸から阿斗を抱き取ると、趙雲が励ました

 

「いえ、私はもう駄目です。それより、何としてでも阿斗様を頼みます・・・・!」

 

「お任せ下さい。されど、命懸けで後主を守って下された、貴女様を置いて行く訳には参りませぬ。さ、共に参りましょう!」

 

その優しい心映えに、糜夫人の眼から一筋の涙が零れ落ちた

 

「その御心遣いだけで充分で御座います・・・足手纏いになっては兄にしかられます・・・」

 

苦しい息の下で、かろうじて立ち上がらせて貰った糜夫人は、にっこり笑って見せた

が、もはや血の気は無かった

 

「私の代りに、阿斗様をお守り下さいまし!趙雲殿にはとても良くして貰い、嬉しゅう御座いました・・・・有難う。お別れです・・・」

 

言うや、若い命は、みずから井戸に手を伸ばすと、その暗渠に身を躍らせた

 

「――――あっ!!奥方様!!」

 

止める間も無かった

糜夫人はそのまま、井戸の底へと落ちて行った

 

覚悟の死であった

 

「――――・・・っ!」

 

せめて遺体を陵辱されぬ様にと、上から廃材と石とで蔽った

そして、小脇に咲き乱れていた淡い秋桜子の一輪を投げ落として、せめてもの手向けとする

 

が、冥福を祈る暇も無く、気付いた敵兵が襲い掛かって来るのが見えた

 

「宜しいか阿斗様。この胸の中で良い子にして居られるのですぞ」

 

優しい眼差で、幼い命の温もりを抱き直すと、趙雲は戦袍の片胸を開け、胸当ての中へ阿斗をすっぽり包み込んだ

 

ひらりと愛馬にうち跨がった趙雲が、キッと前方を睨めつける

 

「さあ来てみよ!私は今、尋常では無いぞ。この憤怒の槍先に容赦は無い!行く手を阻む者あらば、1人残さず冥土へと送ってやろうぞ!趙子龍ここに在り!!いざ参る!」

 

羅刹と化した趙雲は、やって来た先頭の1騎に自慢の朱槍を突き入れると、馬首を巡らして逃げるのでは無く

何とこちらから敵のど真ん中目掛けて、一気加勢に踊りこんでいった・・・!!

 

 

 

 

襲われたのは、敵の方であった

まさか単独で突っ込んで来るとは思っても居無かった

逆に攻撃部隊50余騎の方が奇襲を喰らった格好となった

 

「狼狽うろたえるな!敵は唯の1騎ぞ!」

 

言い合ってはみるが、集団は咄嗟に馬首を巡らせきれない

そのほんの僅かな隙を突いた趙雲の捨て身の進軍が、鬼神と化して駆け抜ける

 

「逃がすな、趙子龍と名乗ったぞ!」

 

その相手が天下に名高い趙雲だと判るや、敵騎の眼の色が一変した

 

「大将首じゃ!超大物ぞ!討ち取れば大手柄だぞ!!」

 

阿斗が2歳児であった事が、かろうじての幸運であった

胸当ての中にスッポリ納まり、趙雲の戦闘能力を削ぐ事が殆んど無かった

あとは血煙街道まっしぐらである

 

後の敵には眼もくれず、ただ遮る前面の敵を全て突き倒すのみ

 

だが、後方の大騒ぎに気付いた前方の敵も、趙雲めがけて殺到して来る

前も後ろも全て敵だらけとなる

斬り下げ突き崩し、突き刺しては斬り進む

 

趙雲の過酷な単騎駆けだった――――

 

 

 

 

 

人の眼は後ろには無い

追撃の流れに乗りつつ逆行する趙雲の騎行は、思いの外の速度を与えていた

不意を喰らって追い抜かれた敵兵が、それと気付いて次々と追撃して来るが、

間道に入ったり、表街道に飛び出したり、出没自在な手綱捌きのお蔭で敵は大混乱を来たすばかり

胸の中の阿斗は、泣き声1つ立てず寝入っている

時々眼を醒ますが、頭を撫でてやると安心した様に又、うとうとする

状況が判る筈も無い赤ん坊ではあるが、激しい趙雲の動きにも大泣きせず、信頼しきってムズからない

 

「良い子ですね、阿斗様は・・・」

 

幼君を気遣いながら駆け通すうちに、眼前の長いだらだら坂が、急にガラ空き状態となって来た

――――難民達は既に散り散りとなって雲散霧消していたのである

 

そして足の速い劉備本軍だけが此の坂を越えていたのだった

こうなると、丸で唯1騎の趙雲を、曹操の大部隊が追いかけているかの如き様相を呈していた

 

往路・復路ともに奮戦に次ぐ奮戦であった

流石の超人も、そして愛馬も、疲労の極に近づきつつあった

その騎行速度が明らかに落ちて来ていた

 

本人は気付いて居無いが、背中には数本の矢が折れ刺さっている

 

見通しの良いだらだら坂である

 

敵部隊の馬蹄の轟きが背後に迫り、その両者の距離が見る見る縮まってゆくのが、手に取る様に視認できる

 

もし今、脇道から敵の数騎でも現われたら、今度ばかりは終わりである

愛馬の疲労骨折が起きても事は終わる

 

もう後が無かった

 

「――――くっ・・・っ!」

 

趙雲は奥歯を噛み締める思いで、馬を走らせた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長坂の高台――――

 

紗羅と夏侯惇はそこに居た

 

下を見れば、1騎が走り抜けていっている

 

「ふん。中々頑張るではないか」

 

夏侯惇はにやっと笑いながら、その1騎を見据えた

 

「・・・・・・・・・」

 

紗羅は何とも言えない面持ちでその1騎を見ていた

 

趙雲様・・・・・・

 

「俺は奴を追う。孟徳が欲しがっているからな。莉維、お前はここに居ろ」

 

「――――はい」

 

そう言いうと夏侯惇は馬の手綱を引っ張る

ヒヒヒィィィン!と馬が鳴いた

そして、反転させると崖を降りていった 趙雲を急襲する為に――――

 

 

「・・・・・・・・」

 

紗羅はグッと馬の手綱を握り締め、歯を食いしばった

 

丁度、趙雲に襲い掛かる曹兵が見えた

趙雲は疲れきっている

 

「趙雲様!!」

 

思わず、声が漏れた

趙雲はその槍捌きでなんとかそれを凌ぐ

 

ほ―――と、紗羅は安堵の息を漏らした

 

また、1騎の曹兵が趙雲に襲い掛かる

 

 

もう――――見てはいられなかった

 

 

もし、このまま遣られるなんて事になったら?

運良く、生きながらえても、曹操に捕まってしまったら?

 

紗羅は首を横に振った

 

駄目・・・それは駄目

 

あの人には自由に生きてて欲しい!!

 

 

 

「――――ごめんなさい元譲様。私は…あの人を助けたい………っ!!」

 

 

 

紗羅は馬の手綱を握り締め、腹を蹴った

 

「はっ!」

 

 

ヒヒィィンと月毛色の愛馬が鳴く

 

そして、反転せず、崖をそのまま駆け下りた――――

 

 

 

 趙雲様!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

趙雲単騎駆け・・・やっと終わったぜ

た・・・大変だった(-_-;)

 

とりあえず、甘夫人は助かるけど、糜夫人は死んでしまいました

まぁ、史実(演義)通りでここは

 

2009/01/18