◆ 黎明の雫 永久の詠吟:5

 

 

 

「………はぁ」

 

玲琳は、読みかけていた書物の頁をめくり掛ける手を止めると、小さく溜息を洩らした

 

私…一体何をしているのかしら……

 

今日の、あの出来事を思い出す

 

昼間、敬愛する従兄に呼び出され 行った先にいたのは荀彧だけでなく、郭嘉もいた

まさか、そこに郭嘉がいるとは思わなかったので 心の準備などまったくしていなかった

不意打ちもいい所だ

 

最初に曹操と曹丕に挨拶に伺った時といい

明らかに、作為的なものを感じる

 

きっと、荀彧の差し金に違いない

何故なら、彼は玲琳が郭嘉を避ける理由を知っている

そして、彼女が郭嘉をどう思っているかも知っている

 

ほのかに赤く染まる頬を押さえながら、玲琳はまた小さく息を洩らした

 

あの時、触れられた手が まだ微かに熱い

羞恥のあまり 、思わず彼の袖を掴んでしまった

 

それは無意識にも近かった

本当はそんなつもり微塵もなかった

 

なのに、気が付いたら手が伸びていた

 

そんな彼女の手を「大丈夫」だと言って優しく包んでくれた

予想外の出来事に、思わず言葉を失った

頭の中も真っ白になった

 

嬉しさと、恥ずかしさと、戸惑いが頭の中でぐちゃぐちゃになり、気が付いたら反射的に後退って顔を背けてしまった

 

やってしまった瞬間、後悔の念に駆られた

あの時、一瞬見えた郭嘉の寂しそうな顔が今でも頭から離れない

 

あの顔を、自分は何度させればいいのだろうか……

 

いつも、いつも

自分は彼に、あの顔をさせている

 

本当に、何をやっているのだろう…と、思う

 

そんなつもりなどないのに……

あんな顔をして欲しい訳じゃないのに……

 

頭では分かっている

分かってはいても、心が付いて来ない

反射的に、身体がそう動いてしまう

 

 

 

「郭嘉様………」

 

 

 

玲琳の小さな声が、ぽつりと部屋の中に響いた

その時だった

 

 

 

「そうやって、一人部屋で切なそうに名前を呼ぶぐらいなら、本人の目の前で呼んであげた方が、よっぽど有用的だと思うけどね?」

 

 

 

「…………っ」

 

突然、後ろから聴こえてきた声に驚き、思わずばさりと書物を床に落とす

 

「あ………」

 

程昱から頂いた大切な書物を落としてしまった

慌てて拾おうとした時、スッと横から伸びてきた細くて長い手が書物を拾い上げる

 

「あ………」

 

玲琳が見上げた先には、いつの間に帰って来たのか 荀彧の姿があった

荀彧はにっこりと微笑むと、そのまま拾った書物を玲琳の机の上に置いた

 

「文若兄様……」

 

聴かれてしまった

思わず出た郭嘉の名

 

聴かれてしまった……っ

 

かーと、瞬間的に頬が赤く染まる

 

「あ、あの……っ」

 

咄嗟に誤魔化す様に、言葉を言い募ろうとするが 上手く言の葉に乗せられない

どうしたら……っ!

そればかりが、頭の中をぐるぐると走る

 

「文若兄様……っ、私……っ!!」

 

言い訳がましく声を荒げかけた時だった、すいっと荀彧が人差し指を立てた

そして、そのまま玲琳の口元に当てる

 

「玲琳?先に他の言う事はないのかい?」

 

「……あ……」

 

言われて、自分が未だ荀彧に挨拶をしていない事に気付く

みっともなく、言い訳を先にしようとした自分が恥ずかしくなり、玲琳はかぁ…と、頬をますます赤く染めた

 

「あ、あの……お帰りなさいませ、文若兄様。お勤め、ご苦労様です」

 

そう言って、恥ずかしさを隠す様に深く頭を下げる

 

荀彧は、「ただいま」とだけ言うと、ぽんぽんと玲琳の頭を撫でた

 

「今日は、何の書物を読んでいたんだい?」

 

「え……、あ、はい。以前程昱様から頂いた貴重な文献の方を――――……」

 

「ふぅん……」

 

荀彧は、傍にあった椅子に座ると、机の上に置いた書物をぱらぱらと捲った

玲琳は少し躊躇いつつも、お茶を淹れると荀彧の前に置いた

 

「ああ、ありがとう」

 

荀彧は書物に視線を送ったまま、玲琳の淹れたお茶に口付けた

ぱら…ぱら…と、頁を捲っていく

数秒もしない内に観終わったのか、ぱたんと書物を閉じた

 

「なかなか、面白い文献だね」

 

「あ、は、はいっ!」

 

今一番のお気に入りの文献を褒められて嬉しくなったのか、玲琳がぱぁっと嬉しそうに顔を綻ばせる

 

「何度読み返しても、いくつもの新しい発見があるのです!きっと、私、一日中でも読み続けても、まだまだ読み足りません!! それに、こちらの文献を読んでいると、頭の中にいくつもの映像が浮かんで―――」

 

興奮気味に語る玲琳を見て、荀彧は一瞬目を丸くしたが 次の瞬間吹き出した

 

「ぶ、文若兄様……?」

 

突然、笑い出した荀彧に驚いて、玲琳がその蒼銀の瞳を瞬かせる

 

私、おかしな事を言ったかしら……?

 

笑われる理由が分からず、玲琳は首を傾げた

そんな玲琳を余所に、荀彧は くつくつと笑いながら軽く手を振る

 

「ふふふ、いや、すまない。お前が余りにも嬉しそうに語るから思わず吹き出してしまったよ」

 

そう言って、荀彧は笑ったまま玲琳を呼ぶ様に手招いた

 

「…………?」

 

玲琳が首を傾げながら荀彧の傍まで行くと、「玲琳」と名を呼ばれた

その声が、酷く真面目に聴こえ、玲琳の肩がぴくりと動く

 

「お前は、何のために許昌に来たんだ?何の為に城に上がったんだい?」

 

「………っ、そ、れは……」

 

核心を突かれ、玲琳が口籠る

 

「勉強の為?それもあるかもしれない。だが、本来の目的は違うだろう?」

 

「……はい」

 

勉強はしたかった

沢山の知識を持つ、曹操の抱える有能な軍師の方々と話をしてみたかった

 

「それとも、本当に若君の奥方になるつもりかい?」

 

名目上はそうだ

曹丕の奥方候補として、そして曹丕の呼び出しと言う建前があるから城への出入りを許可されている

 

「少なくとも、若君はお前にいたくご執心だ。このままいけば、玲琳。お前は間違いなくそう遠くない内に若君に正式に妻として迎えられるだろう」

 

「……………」

 

曹丕は、良くしてくれる

確かに、最初はきつく感じるかもしれないが、何度も話してみればよく分かる

先の事を見据え、その為に動いている素晴らしい人だ

そして、本当はとても優しい

 

一緒に居ると、心が落ち着くし安心する

心地よい

 

「お前がそれを望むなら、私には反対する理由は無いよ。だが、そうではないのだろう?」

 

「………私は…」

 

「もう一度、良く考えてごらん。何の為に“若君の奥方候補”という立場を利用して城に上がってるんだい?お前には、目的があった筈だよ」

 

“目的”

そう―――その為に、わざわざ来たのだ

 

父・荀爽が死に、長安が荒れる中

玲琳が選んだのは、父の兄である荀緄の子 つまりは荀彧の元へ行く事だった

その時、すでに荀彧はあの乱世の奸雄と名高き曹操に仕えており、荀彧もまた曹操の元で「尚書令」として活躍していたからだ

だから、荀彧が長安に父・荀爽の遺体を引き取りに来た時、一緒に連れて行ってくれるようにと頼み込んだ

 

何故、荀彧の元に行く事を選んだのか

 

そう問われれば、答えは簡単だった

荀彧は若い頃、既に何顒という人物から「王佐の才を持つ」と称揚されていたのだ

そして、何顒は曹操にもまた「漢が滅ぼうとした時に新たに天下を安んじる者」と称していた

それは、新たな「天子」だと言う事に他ならない

そして、それを助けるであろうというのが「王佐の器」なのだ

 

これ以外に、理由などあっただろうか?

 

幼き頃から多くの書物に囲まれて過ごした玲琳にとって、これほど魅力的な人はいなかった

 

そして、許昌に引き取られて“彼”の存在を知った

荀彧とは古くからの知り合いで、名も経歴も隠したまま、ひそかに英傑たちと手を結んでいた人物だ

その為、当時“彼”の名を知る者は少なかったと聞いている

だが、既に将来を見通す鋭い洞察力を備え、密かに英俊の士たちと交際を結んでいたため見識ある人には高く評価されていた

その1人が荀彧である

 

そして、その者が選んだのも「曹操」だった

 

この話を聞いた時、最初は変わった人だと思った

だが、それと同時に深く共感出来た

 

“名”ではなく、“一人の人”として英傑たちと交流を繰り返していたという事だ

それは、玲琳にとって、“理想”そのものだった

 

実際、司空にまで昇った荀爽を父に持つ玲琳は、“玲琳自身”を見てくれる人は殆どいなかった

 

「流石は、荀爽殿のお子だ」

 

「やはり、荀爽殿のお子は違いますな」

 

決まって皆が言うのは“荀爽殿の子”だった

だれも、“玲琳”を見てはくれなかった

 

そして、皆が口をそろえて言うのが「男なれば」だった

 

玲琳にとって、それは酷く不快だった

 

だから気になった

名を隠し、交流していたと言うその人物に

 

逢ってみたいと思った

逢って、話をしてみたいと思った

 

だが、普通に考えても曹操の軍師

しかも司空軍祭酒である“彼”に逢える筈が無い

遠目に何度か見た事はあったが、話し掛ける勇気など無かった

 

彼はいつも綺麗な女性に囲まれていて、勉強ばかりしていて、見栄えなどさほど気にした事のない玲琳にとって、そこはとても遠く感じた

 

とても、とても遠かった

 

もっと、自身の見た目を気にしておくべきだったのだろうか

何処に出ても恥ずかしくない様に、「女」としての自分を磨くべきだったのだろうか

そうすれば、あの輪の中に入っていけたのだろうか

 

……それは違う気がした

それは、今までの「荀 玲琳」を否定しているも同じだ

 

そして、そんな事を一瞬でも思ってしまった自分に嫌悪感を抱いた

そんなのは、玲琳ではない

「玲琳」という名の、まったくの「別人」だ

 

私は私だ

だから、「私」として、逢う為に――――

 

「玲琳」

 

不意に、名を呼ばれ ぴくりと玲琳の肩が揺れた

 

「もし、お前がまだそれを望んでいるのなら、少なくともあの態度は改めなさい」

 

「………それは……」

 

言わんとする事は分かる

今までの“彼”に対する態度で明白だ

 

だが……

 

話したい

 

「だって……」

 

じわりと、玲琳の美しい蒼銀の瞳に涙が滲み出る

 

話してみたい

 

「私、あの方を前にすると頭が真っ白になって……」

 

話したいのに、上手く話せない

目の前にすると、色々な感情が入り混じって頭が混乱する

 

「きっと、今以上に酷い態度を取ってしまいます……」

 

だから、思わず避けてしまう

そうする事によって、必死に自分を保っている

 

嬉しさと、恥ずかしさと、戸惑い 困惑するばかりだ

 

「それに――――……」

 

彼の周りにいた、綺麗な女性達

あの中に、入る勇気などない

 

その時だった、荀彧が「ふぅ…」と、小さく溜息を洩らした

 

「玲琳、お前は何か考え違いをしている様だが、お前は他の誰に劣る必要がない位、充分美しく、才に満ちているよ。私が保証しよう」

 

そう言って、ぽんっと優しく玲琳の頭を撫でた

だが、当の本人は納得していない様で「そんな筈は……」と、呟いた

 

「私…あの方の周りにいる様な綺麗な方々みたいに煌びやかでもありませんし…」

 

玲琳ぐらいの年頃の女ならば、着飾ったり、輝かんばかりの装飾品を身に付けたり、化粧も念入りにしたりするものだ

だが、生憎そっちには微塵も興味がわかなかった玲琳は、最低限の事しかしていないし、着飾るという事もしていなかった

だから、荀彧に「美しい」と言われても、全然理解出来ないし、納得できない

 

「ふぅ…」

 

再び、荀彧が溜息を付いた

 

「良く考えて御覧、お前はあの若君に見初められてるんだよ? 他の女性がどれ程羨ましがっているか知っているのかい? お前は知らない様だから言っておくが、曹丕様といえば、この許昌の女性ならば、誰しもが見初められたいと思っている程の人物なんだよ? お前は、そんな若君を一目見ただけであそこまでご執心にさせているんだ。それが何よりの証拠だろう?」

 

「……子桓様が興味を持って下さっているのは、私の吟などであって見た目には……」

 

現に、曹丕に見た目を褒められた事など無い

彼が求めるのは、吟詠だ

彼はよく、吟を所望する

だから、きっと見た目などはお好みではないのだろう

 

玲琳の頑ななまでの否定に、荀彧は三度目の溜息を付いた

 

「分かった、まぁ、その話はとりあえず置いておこう。今は、彼に対する態度を変えなさい。あれでは嫌っている様にとらえられるぞ?」

 

「…………っ」

 

荀彧の言葉に、玲琳がぐっと息を飲んだ

ぎゅっと、握っていた手に力が篭る

 

「……嫌って、など…………っ」

 

「うん、知っているよ。だが、向こうは知らない。少なくとも、彼は避けられている事には気付いているだろう。もしかしたら、嫌われているのか…とも思っているかもしれないね」

 

「……で、ですが………っ」

 

では、どうしろと言うのだ

 

勇気を出して彼の前に行き、失礼や失敗を犯して走り去ればいいのか

それとも、ただ無言で立っていればいいのか

 

どうあがいても、今の玲琳には到底無理な話だった

 

 

 

「玲琳」

 

 

 

荀彧の声が、一際響いた

 

「時には言葉にしないと、人には伝わらない事もあるんだよ。覚えておきなさい」

 

「……は、い…………」

 

荀彧からの厳しい言葉に、玲琳はただそう頷くしか出来なかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

めっちゃ、久しぶりの更新です(-_-;)

長々と、潜伏していてすみません……

 

とりあえず、今回は避けてた真相ですな

って、郭嘉まったく出てこないしww

名前だけでしたねー

 

荀彧しか出てないよww


余談:三國7にいっぱい郭嘉が出てるね!

 

2013/03/21