◆ 黎明の雫 永久の詠吟:6

 

 

 

「………………」

 

郭嘉はいつにも増してぼんやりしていた

ぼうっと遠くの空を眺める様に、窓の外を眺めている

 

窓の外は、郭嘉の気持ちとは裏腹に澄みきっていた

空気が冷たいせいか、余計に澄んでみえる

 

郭嘉は、小さく息を吐くと一度だけその瞳を瞬かせた

 

 

心ここにあらず

 

 

とは、まさにこの事なのだろうと それを見ていた陳羣は思った

数刻前、陳羣が書簡を持っていた時、既に郭嘉はこの状態だった

 

仕事をするでもなく、かといって遊びに行くでもなく

ただ、ぼんやりと外を眺めている

 

幡から見れば

なんという憂い顔だろう…と、女官達がほぅ…と頬を染めて溜息を洩らすのが手に取る様に分かる

だが、陳羣は違った

 

長年、郭嘉に説教するぐらい彼を見ていた

それは、始めは尊敬からだった

憧れともいえる

郭奉孝という人物に興味があったのだ

 

若くして才を認められ、あの曹操にすら切望された人物

そして、瞬く間に司空軍祭酒という位にまで上り詰めた

 

どんな人だろうと心躍らせて会ってみてば……

駄目人間の象徴の様な人だった

 

女と酒を好み、仕事にはちっとも意欲的ではない

陳羣が思っていた人物とは程遠い人だった

だが、その才は本物だった

 

いざ軍議になると、陳羣など思い付かぬような策を次々と打ち立てていく

戦にしてもそうだ

 

的確で早い判断能力、先を見る洞察力、周りの状況をいち早く気付く観察力

全てにおいて、陳羣をはるかに上回っていた

 

やっぱり凄い人だ!!

 

陳羣は、改めて実感した

それは執務においてもそうだった

 

殆どやる気を示さない彼が、いざやり始めると瞬く間に終わってしまう

 

だから余計に思った

それだけの実力を持っているのに、どうして楽をしようとするのか――――と

 

もっとやればもっと上に行けるというのに

それこそ、荀彧と並び尚書令になってもおかしくないのに――――

 

だが、郭嘉本人には出世欲というものがまるでないのか―――

必要な事を、必要な時だけする

という姿勢を崩さなかった

 

陳羣は悔しかった

せっかくあれだけの才を持ち、曹操にも重用され

それでも彼は、上へと行こうとはしない

 

暇さえあれば、酒を飲み、詩を詠い、美しい女性と戯れる

 

なんと勿体ないことなのだろう

だから、ついついあれこれ言ってしまう

郭嘉に期待すればこそ、言いたくて仕方なくなる

 

仕事をして下さい

遊び歩かないで下さい

真面目にして下さい―――――と

 

気が付けば、陳羣は郭嘉の小言係になっていた

もう、それが周知となっており、誰も彼も 当の郭嘉にすら笑って流される始末だ

 

陳羣も小言を言うのが半分癖になりつつあった

それもこれも全て、郭嘉の事を思うが故だった

 

だが、近頃の郭嘉は一段とおかしかった

少し前は、まだぼんやりしつつも筆をくるくる回す余裕はあった

しかし、ここ数日はどうだろう

 

正真正銘、心ここにあらずである

 

ぼんやりと外を眺めたり、ふらっと何処かへ行ったり

この間は、庭先に咲いている白い花を眺めて何かつぶやいていた

 

はっきり言って、変である

 

だが、陳羣には何となく理由が分かっていた

郭嘉がこんなになってしまった原因

 

 

それは、彼女の事だろう

 

 

一時期、郭嘉が彼女を追い掛けていたと城内で噂になっていた

 

荀彧の従妹であの曹丕の奥方候補

大変美しく勤勉であると評判の、少女―――――荀 玲琳

 

中でも、彼女の吟詠はかなり素晴らしいとの話だ

 

そんな彼女を郭嘉が追い掛けていたという

郭嘉が、そんなに心奪われる程の人なのだろうか…?

 

正直、玲琳に会った事のない陳羣には理解しがたかった

 

郭奉孝ともあろう人が、そんな風に必死になる姿など全然想像付かない

しかし、事実 郭嘉は彼女とはそれほど上手くいっている訳では無いようだ

それを証明する様に、郭嘉は日に日におかしくなっていく

 

憂い意を帯びた表情を浮かべては溜息を洩らす

 

これはどう見ても……

郭嘉の一方通行の様な気がした

 

それはそうだ

玲琳は、あの曹丕の奥方候補として城に上がっているのだ

決して、郭嘉に会う為ではない

 

実際、彼女は城に居る大半を曹丕と共にいるそうだし

曹丕が執務の際は、勉学に励む様に曹操の軍師達の所へ足げく通っている

 

と、そこまで考えて陳羣はある事に気付いた

そういえば、彼女が郭嘉の元へ来るのを見た事が無い

 

優秀な人物の元へ通っているなら、郭嘉の元こそ率先して来るべきではないのか…

しかし、彼女からの郭嘉への”先触れ“は受け取ったためしがない

 

まるで、これでは避けている様だ

 

そこまで考えて、陳羣は小さく首を捻った

 

彼女が郭嘉を避ける理由はなんだ?

以前、郭嘉に追い掛けられたからか?

 

いや、違うなと陳羣は思った

おそらく、彼女は避けていたから郭嘉から逃げたのだ

だから、郭嘉は追い掛けた

 

そうなると、玲琳は最初から郭嘉を避けていた事になる

それは何故だ

 

陳羣はうーんと唸りながら考えた

しかし、考えても答えなど浮かばなかった

 

曹丕に、「郭嘉は危険だから近づくな」とでも言われているのだろうか?

いや、あの曹丕に限ってそんな事言うとは思えない

 

では、何故だ

 

そこまで考えた時だった、突然ふらりと郭嘉が目の前を取り過ぎた

陳羣はぎょっとして、慌てて郭嘉の肩を掴んだ

 

「ちょっ……!郭嘉殿!?何処に行かれるのですか!?」

 

そう叫ぶが、郭嘉はするりと陳羣の手をすり抜けてそのまま何処かへ行ってしまった

残された陳羣は、郭嘉のいなくなった執務室を眺めてただ大きく溜息を洩らしたのだった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ****    ****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

空は綺麗だった

この鬱々とした気持ちなど、無かったものの様に澄みきっていた

 

郭嘉は庭園へと続く回廊を歩きながら 、ぼんやりとそんな事を考えていた

 

ふと、目の前に白い花が目に入った

瞬間、郭嘉の足が止まる

 

白い花……

 

彼女と―――玲琳を初めて見た日

あの日も、曹操の私邸の庭には白い花が咲き誇っていた

 

そしてその中で、詠う彼女の姿が今でも忘れられない

 

流れる様な漆黒の髪も

美しい月の様な蒼銀の瞳も

彼女の唇から紡がれる 迦陵頻伽の様な詠声も

 

すべて、覚えている

 

銀色の月が昇る中、白い花に包まれて詠う彼女は さながら仙女の様だった

 

その彼女が、今こうして同じ城内にいるというのに……

 

「はぁ……」

 

郭嘉は、小さく溜息を付いた

 

その彼女は、郭嘉には手の届かない様な存在になりつつあった

 

”曹丕の奥方候補”

 

何故、荀彧は彼女を曹丕の奥方候補として曹操に紹介したのだろうか

そもそも、何故自分も呼ばれたのだろうか

 

そこが理解出来ない

まるで、あれでは郭嘉にも彼女を―――玲琳を紹介している様なものだった

 

どういうことだ……?

 

荀彧が、何も考えずにそんな事をするとは思えない

かといって、荀彧の思惑は郭嘉には理解しがたかった

 

若君に紹介する時点で、私に紹介するのは何か意図があったのだろうか……

 

一瞬、そっちが本命か?とも思った

郭嘉が玲琳を曹操の私邸で見た事は、恐らく荀彧の中では周知の事実だったのだろう

そう考えると、郭嘉が彼女を見て心奪われない筈が無いと、それぐらい気付く筈だ

 

こう見えても、荀彧との付き合いは曹操よりも長い

勿論、郭嘉の好みなども熟知されている

その荀彧が、何の意図もなく玲琳を郭嘉に会せる筈が無い

 

だからといって、突然 郭嘉を何度も私邸に呼べば噂が立つ

それは、荀彧としても郭嘉としてもよしとはしない所でもあった

 

そうなると他で会わせようと荀彧は考えるだろう

それが、今回の顔合わせだ

曹丕の奥方候補としてなら、玲琳が何度登城してもおかしくないし

第一、 登城すればそれだけ郭嘉に会わせやすくなる

 

 

と、そこまで考えて 自分は何を都合の良い事を考えているのだろうと思った

 

 

玲琳の態度を見れば一目瞭然ではないか

明らかに郭嘉を避けている彼女に、あの荀彧が無理矢理 郭嘉を薦める筈が無い

何よりも、玲琳自身が嫌がっている

 

数日前、彼女が郭嘉の袖を掴んできた時、抱きしめて守ってやりたくて仕方なかった

この手で、彼女を守りたかった

 

だが、彼女のそれは一瞬だった

 

前もそうだ

玲琳は郭嘉を見るなり反転して逃げ出した

 

逃げる程嫌がられている

その事実は、変わらないのだ

 

「……………はぁ」

 

郭嘉はまた、小さく溜息を洩らした

 

何故だろう

嫌われる理由がまったく分からない

嫌われる以前に、それ程会ってすらいない

それとも、知らぬ間に彼女に何かしでかしてしまった事でもあるのだろうか?

 

もしそうだとしたら、何処かで会っている事になる

だが、郭嘉にはその記憶は無かった

彼女を何処かで見たなら、絶対に忘れる筈が無い

 

それぐらい彼女は郭嘉の中で印象に残った

一度見たら、絶対に忘れない自信もあった

 

だが、会った記憶は無い

つまり、彼女に会ったのはあの宴の晩が初めてなのだ

 

あの時は会話すら交わしていないし、正式に面識をもったのは荀彧が曹操と曹丕に紹介した時だ

その時ですら、会話などしていない

 

その後はずっと会えず

やっと会えたと思ったら、逃げられた

 

何故そうまでして嫌われるのかが分からない

 

郭嘉が何度目か分からない溜息を洩らした時だった

不意に、どこからともなく美しい詠声が聴こえてきた

 

郭嘉はハッとしてその声のする方を見た

その詠声は忘れる筈もない――――彼女だ

 

 

彼女が―――詠っている

 

 

そう思った瞬間、足が自然と動き出した

それは無意識に近かった

 

 

玲琳が居る

 

 

そう思うだけで、心が早鐘の様に鳴り響いた

彼女が―――この近くに

 

はやる気持ちを押さえながら、郭嘉はそっと声のする方を見た

そこは、城内の中央にある庭園の中の一角だった

池の片隅に白い花が咲き乱れる中―――彼女がいた

 

 

彼女は―――玲琳は一人、その花の中で詩を詠っていた

 

 

美しかった

他の物など目に入らなくなるぐらい、彼女は美しかった

 

ああ…彼女だ………

 

郭嘉は知らぬ間に、庭園の中に降り立っていた

一歩彼女に近づく

 

 

その時だった

 

 

パキ……

 

その音は酷く大きく聞こえた

彼女がびくっとしてこちらを見る

 

「あ………」

 

その瞬間、あの蒼銀の美しい瞳と目が合った

郭嘉は、ごくりと息を飲んだ

 

迂闊に動けが、また目の前で避けられてしまう

正直、これ以上の拒絶は耐えられそうになかった

 

声を掛けたいのに掛けられない

話したいのに、話せない

 

郭嘉が硬直した様に、考えあぐねいている時だった

 

ふと、玲琳が息を飲むのが分かった

 

ああ……また、避けられるのだ

そう思った

 

だが――――

 

「あ、の………」

 

不意に、彼女の美しい声が自分に向けられて聴こえてきた

郭嘉は、ハッとして彼女を見た

 

玲琳は顔を真っ赤に染めたまま、何かを言おうと必死に考えている様だった

だが、口を開きかけては閉じる

何度もそれを繰り返すうちに、そのまま俯いてしまった

 

それを見て思った

自分の存在が、彼女を困らせている――――と

 

それはそうだ

嫌いな相手がいきなり目の前に現れれば逃げたくて仕方なくなるだろう

でも、優しい彼女はそれで郭嘉が傷付くと思って、逃げたいのを必死に我慢してくれているのだ

 

「………………」

 

自分の存在が、彼女を困らせている

そう思ったら、泣きたい気持ちになった

 

郭嘉はぐっと息を飲み、平静を装うと

 

「すみません、邪魔をしてしまったようですね。ですが、ご安心下さい。私は直ぐに立去りますので―――……」

 

そう言って、彼女を安心させる様に微笑んで見せた

これで、彼女も安心する

避けられて目の前で逃げられるよりずっといい――――……

 

 

そう思った

 

 

だが、玲琳の反応は予想外に驚いた様な表情を見せた

それから、何かを思い立ったかの様に郭嘉に駆け寄ってきた

 

え……?

 

一瞬、自分が思っていた反応と違い過ぎて郭嘉が少しだけ戸惑いの色を見せる

だが、玲琳は構わず息を切らせながら郭嘉の傍まで来ると不意に郭嘉の袖を掴んだ

 

え!?

 

まさかの反応に、郭嘉が驚いた様にその瞳を見開いた

反対に、彼女は何かを言おうと口を開くが―――上手く言葉が出ないのか、開いていは閉じると繰り返した

 

何か言おうとしている……?

 

流石の郭嘉にもそれは分かった

だが、彼女も困惑しているのか、何をどう言ったらいいのか分からないらしい

 

触れても大丈夫だろうか……?

 

触れた瞬間、手を振り払われたりはしないだろうか

そんな不安がよぎったが、彼女を見た瞬間その不安は吹き飛んだ

 

あの時と同じく、玲琳の手は震えていた

 

郭嘉はごくりと息を飲み、そっと手を伸ばした

そして、彼女が驚かないようにそっと 彼女の手に触れてみる

「玲琳殿?」

 

優しく、優しく声を掛ける

瞬間、玲琳の頬がかぁぁっと赤く染まる

 

その反応に、郭嘉は首を傾げた

嫌われている――――反応とは違って思えて仕方なかったからだ

 

瞬間、先程の考えが脳裏を過ぎる

 

 

“荀彧は、玲琳を郭嘉に会わせる為に、彼女に曹丕の奥方候補という役割を与え登城させたのではないか”

 

 

そんな都合の良い話がある筈が――――

 

そう思うのに、その考えが頭の中をぐるぐると回る

 

まさか……

と、思うも 今までの事もあるので楽観視出来ない

 

郭嘉は、彼女の言葉を待った

玲琳は、小さく息を吸うとゆっくりと顔を上げた

その顔は真っ赤に染まっていた

 

「あ、の……郭嘉、さま……」

 

 

“郭嘉様”

 

 

彼女の美しい声が自分の名を呼んでくれた

それも、自分から……

 

 

何とも言えない、嬉しさが郭嘉の中を支配する

 

だが、郭嘉が本気で驚いたのは、その後の言葉だった

玲琳は、小さく息を吸うと震える声で―――……

 

 

「その……、今度……郭嘉様の所へお伺いしても…よろしい、で、しょうか……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 続

 

 

あら……?

何やら、進展しそうな感じですよ?(笑)

やっとかww 感が否めませんww

 

しかし、郭嘉が郭嘉っぽくないかもしれません

すみません…

 

てか、陳羣は郭嘉に憧れてたんだってーへぇ…

あ、うちの陳羣は…ですけど

だから、逆に憧れと現実のギャップでなww

 

2013/07/26