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◆ 第1話 紅玉 1
“呪い”
それは、人間から流れ出た負の感情や、それから生み出されるものの事を言う。
特に、学校や病院など“大勢の思い出に残る場所”には感情が吹き溜まりやすく、
辛酸・後悔・恥辱など、人間が記憶を反芻する度、その感情の受け皿となるのだ。
そして、日本国内でその“呪い”によって起こる、怪死者や行方不明者は、
年間平均1万人を超えると言われている。
そんな“呪い”は基本一般人には分からず、見る事も出来ない。
“呪い”は、“呪い”でしか祓えないのだ。
故に、それらを祓う事を生業とする者たちがいる。
それが――“呪術師”。
―――京都府京都市内・某ホテル
ピピ……ピピ……ピピ……。
何処からか、何かの音が聞こえてくる。
深い眠りを遮るように、電子音が無機質に鼓膜を叩いた。スマートフォンのアラームではない。もっと執拗で、こちらの神経を逆なでするような呼び出し音。
……誰、こんな時間に……。
神妻凛花は重い瞼を押し上げ、手探りでベッドの上の端末を探し当てた。バックライトに浮かび上がったのは、“五条悟”の三文字。
「……」
凛花は無言のまま、端末をベッドの隅へ放り投げた。今しがたまで見ていた、血生臭くも静かな夢の続きに戻ろうと、毛布を頭から被る。だが、呼び出し音は止まない。それどころか、設定もしていないはずの音量がじりじりと増していく。
「……うるさいですよ」
吐き捨てるように呟き、端末の電源を強制終了させた。ようやく訪れた静寂。これで泥のように眠れる――そう確信した、次の瞬間だった。
コン、コン。
窓を叩く、軽い音。
ここは高層階だ。迷い込んだ鳥の悪戯だろうか。無視を決め込もうとしたが、音は規則正しく、かつ執拗に続いた。
「……」
コンコンコンコンコン!
コンコンコンコンコンコンコン!!
「っ……!」
苛立ちというよりは、あまりのしつこさへの呆れに近い感情で毛布を撥ね退けた。凛花は窓際へと詰め寄り、勢いよくカーテンを引き絞る。
「何の真似――」
『やっほー! おはよう、凛花ちゃん』
「え……?」
そこにいたのは鳥ではなかった。目隠しに黒ずくめ。地上15階の窓の外、何もない空中に平然と腰を下ろしている男。
シャッ! と反射的にカーテンを閉め直す。凛花は深呼吸を一つ。そして自分に言い聞かせた。
「……徹夜明けだもの。酷い幻覚を見て当然ね。寝ましょう」
だが、現実は非情だった。
『ちょっと! 閉めないでよ凛花ちゃん! 開けて、ねえ開けて! 近所迷惑になっちゃうよ?』
コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン!
コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン!!
窓を叩く音が、先ほどより数倍の強度で室内に響き渡る。近所迷惑をかけているのはどちらか。……この男は目的を達するまで絶対に引かない。
「……はぁ」
諦めに似た深い溜息を吐き、凛花は再びカーテンを開け、ロックを外した。あえて乱暴にサッシを引く。男の顔面に直撃しそうになるが、彼はひらりと身をかわして室内に滑り込んできた。
「……さっさと入ってください。他の人に見られたら説明がつきません。ここが何階だと思っているのですか。15階ですよ。落ちたら死んでしまいますよ」
「僕が死んだら、日本中の女の子が泣いちゃうよ?」
「何、訳の分からない事を……」
窓を閉め、鍵をかける。振り返ると、男は当然のように備え付けのポットでコーヒーを淹れ始めていた。あまりの図々しさに目眩を覚えつつも、凛花は無意識に差し出されたカップを指先で受け取ってしまう。
「はい、凛花ちゃん。目覚めのカフェイン」
「……ありがとうございます。……ではなくて」
カツン、と机にカップを置き、凛花は彼を鋭く睨みつけた。
「どうしてここにいるのですか、五条悟さん。貴方は東京、ここは京都です。わざわざ突撃訪問されるような理由に心当たりはありませんが」
「えー? 凛花ちゃんに会いたい一心で、わざわざ飛んできたんだよ。電話も出てくれないし」
「出る理由がありません。私は仕事で来ているんです」
「僕だって仕事だよ。……オマエを口説くっていう、ね」
「……帰ってください」
凛花はぴしゃりと言い捨て、彼を無視してシャワールームへ向かう。今の彼女にとって、この男の我儘はもはや日常の一部だが、それとこれとは話が別だ。
「凛花ちゃん?」
「どこかの誰かさんのせいで、予定より早く目が覚めました。……覗いたら、術式ごと心臓を抉りますからね。出口はあちら。あと、二度と“ちゃん”付けで呼ばないでください」
バタン! とドアを閉める。
五条はその背中を見送り、くすりと唇の端を上げた。
「相変わらず可愛いね。……ねえ、昂。君の妹は、やっぱり強くて優しいよ」
そう言って、ベッドの上でコーヒーを飲みながら くつくつと笑っていたのだった。
**** ****
「……」
数分後。
バスローブを羽織り、湿った長い髪をタオルの上から押さえながら出てきた凛花は、その場で凍り付いた。
「……何をしているのですか、悟さん」
彼女が眠っていたはずのベッド。その中央で、五条悟が横になり、あろうことか手招きをしていた。
「何って……僕の前でシャワーを浴びるなんて、てっきり“そういう”お誘いかと」
「……馬鹿なことを言わないでください」
頬が熱くなるのを自覚しつつ、凛花は深い溜息と共にベッドの端に腰を下ろした。
今の彼女には、彼を追い出すエネルギーすら残っていない。無言で長い髪を拭き始めると、背後からふわりと大きな手が伸びてきた。
「貸して。僕がやるよ」
「結構です。自分でできます」
「いいからいいから」
強引に奪われたタオルが、髪を包み込む。その手つきは、恐ろしいほどに繊細で、優しい。不意に、昔の熱い指先を思い出してしまい、凛花は反射的に視線を逸らした。
「凛花の髪は、相変わらず綺麗だね」
「……」
「長くて、艶があって。僕が好きだって言った時のままだ」
「……それ、は」
『凛花――俺、オマエの髪好きなんだ』
「……」
遠い日の残響。凛花は奥歯を噛み締め、小さく首を振った。
でも、この人は……。
「……別に、貴方に言われたからではありません。ただ、手入れを怠るのが嫌なだけです。……勘違いしないでください。貴方の為になど、毛頭ありませんから」
そう――別に彼に言われたから、伸ばしている訳でも、手入している訳でもない。
ただ、単に……。
虚勢だと自分でもわかっていた。
その時、髪を拭いていた彼の手が止まり、そのまま背後から包み込むように腕が回る。
「……っ! な、にを……!」
視界が反転した。
気付けば、シーツの上に押し倒されている。
至近距離。いつの間にか外された目隠しの奥、碧の瞳が、射抜くように自分を見つめていた。
「凛花はさ、俺のこの目を好きだって言ってくれたよね。俺は嬉しかったんだ。この目のせいで、ろくなことがなかったから」
五条が凛花の黒髪をひと房掬い上げ、慈しむように唇を寄せる。
「だから。オマエが俺の言ったことを、今もこうして守ってくれているのが、堪らなく嬉しいんだよ」
「……っ。違う……」
違う。私は、貴方を忘れるために――。
凛花は深紅の瞳を潤ませ、彼の胸元を押し返した。
「やめて……もう、私達には何の関係も……」
「あるよ」
断定するような強い声。
五条の指先が、凛花の頬にそっと触れる。
「オマエがどう思おうと、俺にとっての君は――」
「やめて……っ!!」
拒絶は、悲鳴に近いものだった。
瞳から溢れた熱い雫が、彼の指を濡らす。
「言わないで。……もう、やめてください……悟さん……」
「……」
この人の前でだけは、取り乱したくなかった。
凛花が顔を背けると、一瞬、額に柔らかな温もりが触れた。
驚いて「え?」と目を見開くと同時に、五条の碧色の瞳と目が合う。五条はいたずらが成功した子供のような顔で、彼女の頭を無造作に撫でて立ち上がった。
凛花が何かに気付いたかのように、慌てて自身の額を抑える。
ま、まま、まさか……っ
「さ、ささ、悟さんの……、馬鹿あああ!!」
その後、大惨事になったのは言うまでもない。
―――数分後
「落ち着いた? 凛花ちゃん」
ひっくり返った椅子の影から、五条が飄々と声をかける。凛花は乱れた息を整えながら、今度こそ明確な殺意を込めて彼を睨み据えた。
「お茶」
「はいはい」
手渡されたペットボトルの蓋を自ら開け、一気に喉を潤す。
ようやく理性が戻ってくると、凛花は事務的な口調を意識して切り出した。
「……それで。本題は何でしょうか。貴方は、無意味にここへ来るほど暇ではないでしょう」
残念だが、この五条悟という男は無駄に忙しい。
こんな所で、単に油を売りに来たとは思えない。
面倒くさいので、さっさと本題を切り出させようと、凛花の方から口を開いた。
すると、五条が不服そうに頬を膨らませた。
「えー勿論、愛しの凛花ちゃんに逢いに――「次は、ありませんよ?」
さっさと本題を言え。
という文字が、凛花の背後から見えないのか……。
未だに冗談で返そうとする五条を、凛花の鋭い言葉が一刀両断にする。
すると、やっと観念したのか……五条が頭をかきながら椅子の影から出てくる。
「実は、ちょっと上の奴らがね。僕がこっちに出張中の間に、面倒な事やらかしてくれたみたいでさ。それの処理をオマエに頼みたいんだよね」
そう言って、五条が何かの資料を渡してきた。
そこには、三人の学生のプロフィールが記載されていた。
凛花が一枚一枚見ていく。
「虎杖悠仁、釘崎野薔薇、伏黒……これ、恵君?」
「そ、恵もいるんだよ。だから、凛花ちゃんがいいかと思ってね」
「……ちょっと待って下さい」
凛花の表情が、資料を読み進めるにつれて凍り付いていく。
「これ……正気ですか? 一年生にやらせる任務ではありません」
「上はマジだよ。僕の可愛い生徒を、まとめて消したいらしい」
「……」
高専上層部の腐敗は、今に始まったことではない。
だが、これはあまりに露骨だ。
だが……。凛花が難しい顔をして、黙り込む。
間に合う?
保障の出来ない事を請け負う訳にはいかない。
でも――。
「……悟さんは、行けないのですか」
「僕はこの後、五件ほど特級絡みの案件が入ってる」
「……私も、京都で二件片付けなければなりません。急いで東京に戻ったとしても、間に合うか……」
二人の間に、一瞬の重苦しい沈黙が流れる。
凛花が「できるだけ早く片付けます」と言おうとした、その時。
背後に気配。五条がしれっと凛花の肩に手を回していた。
「えっと……?」
意味が分からず、凛花が首を傾げる。
「……何をしているのですか」
「いやあ、凛花ちゃん。僕たち、随分と“ご無沙汰”だったでしょ?」
「はい?」
「ここはホテル。そして、シャワー浴びたての凛花ちゃん。……“本題”の前に、まずは久々の親睦を深めるべきだと思わない?」
満面の笑みで宣う最強の呪術師に、凛花は今日一番の拳を握りしめた。
「さっさと……、“祓除”の仕事に行ってください!!」
ホテルの防音壁を抜けて、凛花の怒声が京都の空に響き渡ったのだった。
旧:2023.11.17
新:2026.03.15

