◆ 第１話 紅玉 ２
――――東京都西東京市・英集少年院
天気は嫌なぐらいどんよりしていて、小雨がぱらぱらと降っていた。
まだ、日は暮れていない筈なのに、ここら一帯「夜」になっている。
正確には「帳」を降ろして「夜にした」が正しい。
外から見えなくして“呪い”をあぶり出す漆黒の結界であり、非術師には認識できない代物だ。
この少年院で、「窓」……つまりは、術師ではないが“呪い”を視認出来る高専関係者が、「受胎」を確認したのが３時間前。
避難誘導９割の時点で、現場の判断により施設を閉鎖。
受刑在院者第二宿舎に、５名の在院者が現在も受胎と共に取り残されている。
万が一、受胎が「変態」を遂げるタイプの場合――「特級」に相当する呪霊に成ると予想されていた。
本来であれば、呪霊と同等級の術師が“任務”に当たる。
この場合だと、呪霊が「特級」なので、術師も「特級」クラスの者が当たるのだが……。
現在、この日本で確認されている「特級呪術師」は４人しかいない。
その内の1人であり、今動けるのは、「最強」の名を冠する 東京都立呪術高等専門学校・１年担任を務める「五条悟」のみだった。
しかし、その五条も今は京都へ「出張」という名の“任務”に赴いており不在。
故に、緊急処置として高専１年生の３名が派遣された。
“東京都立呪術高等専門学校”
日本に２校しかない４年制の呪術教育機関の１校である。
表向きは、私立の宗教系学校とされているが、
多くの呪術師が卒業後もここを起点に活動しており、
教育のみならず、任務の斡旋・サポートも行っている呪術界の要の場所である。
今回の任務に派遣されたのは、東京校の１年３名。
二級呪術師・伏黒恵。
三級呪術師・釘崎野薔薇。
そして――等級未定・虎杖悠仁。
確かに、この業界は人手不足だ。
上層部が手に余る任務を与える事は、多々ある。
しかも、今回は緊急事態の、異常事態。
だからと言って、いくら何でもこの人選はないのでないかと、伊地知潔高は思った。
かといって、伊地知自体は呪術師ではない。
あくまでも、高専の補助監督というしがない中間管理職。
結局は、上の命令には逆らえないのだ。
だから、伊地知は彼らに言った。
「絶対に、戦わない事」と。
あくまでも、彼らへの任務は生存者の確認と救出。
特級と会敵した場合の選択肢は、「逃げる」か「死ぬ」か。
「自分の恐怖には素直に従ってください」とは伝えたものの――果たして、彼らが素直に従ってくれるかどうか……。
伊地知は小さく息を吐くと、建物の方を見た。
彼らが入ってから、どのくらい経ったか……。
１時間？ ２時間？
だが、一向に出てくる気配はない。
やはり、命令に背いてでも止めるべきだったのか。
まさか、３人とももう……。
そこまで考えて、伊地知は小さくかぶりを振った。
今からでも、応援を呼びに行くべきか。
いや、応援が呼べるならば最初から、その人物に頼んでいた筈だ。
かといって、自分が赴いても何の役にも立てない。
どうすれば――。
そう思って、頭を抱えている時だった。
かつん……
不意に、何処からか何かの「音」が聞こえてきた。
伊地知が はっとして持っていた銃を構える。
今、ここら一帯は封鎖している。
つまり、一般人に侵入は不可。
「帳」に術師が侵入した形跡も感じられなかった。
という事はまさか……っ。
呪霊が、外に……。
ごくりと、唾が喉を通る音が嫌に大きく聞こえる。
銃を持つ手が震える。
それでも、彼らの事を思えば、ここで自分だけが逃げ出す訳には――。
そう、思ったときだった。
「……伊地知さん？ 何なさっているんですか、そんな物を構えて」
「え……？」
その声に、伊地知が はっと顔を上げると――そこには、見知った女性がいた。
「か、神妻……凛花、さん……？」
そこに立っていたのは高専所属ではなく、宮内庁所属の唯一の家門・神妻家次期当主と言われている、神妻凛花だった。
＊＊＊＊ ＊＊＊＊
「神妻家」
遥か昔より皇族にのみに仕えてきた呪術師の一族で、今も尚 その絶対的な力と権力で、呪術高専や御三家・呪術連とも違う、独立した勢力を持つ呪術師の家門。
噂では、呪術御三家とも渡り合えると言われている程の一族だ。
そんな彼女が、何故ここに……？
そこまで考えて、伊地知は はっとした。
「まさか、五条先生が……」
伊地知のその言葉に、凛花が小さく息を吐いた。
「ええ、早朝からいきなり悟さんがホテルに押しかけて来て……。こっちも仕事で“京都”に居たっていうのに、無茶振り押し付けてきたんです。まぁ、放っておくわけにもいかなかったので、早めに残りの仕事を終わらせて、こっちに帰ってきたんですが――」
そこまで言いかけて、凛花は建物の方を見た。
嫌な感じだった。
ここまで無駄に呪霊の呪力を感じる。
まるで、力を誇示しているかの様な、不快な感じだ。
これは――。
「受胎と聞いていましたけど、おそらくもう、変態していますね」
「え！？」
凛花の言葉に、伊地知がぎょっとする。
万が一の時は逃げてくれと言ったのに、彼らの姿はここにはない。
という事は、まさか――。
「あ、あの、中に入った彼らは――」
「……安心出来る状態ではないですが、まだ生きています。とりあえず、話は後で。直ぐに突入します」
そう言って、凛花が左の髪を結んでいる鈴を弾いた。
瞬間――。
り―――――――ん
辺り一帯に、鈴の音が反響する様に広がる。
伊地知が何事かと驚いているその時だった。
突然、扉の向こうから「アオォォ――――ン」という、何かの鳴き声が聞こえてきた。
その声に、凛花がはっとする。
その鳴き声には聞き覚えがあった。
それは――。
「この声……玉犬？ ―――っ、恵君！ こっちよ！！」
「え？ 神妻さん？」
突然叫んだ凛花に、伊地知がその瞳を瞬かせる。
「――おそらく、出口を探しているのよ。中は呪霊の生得術式で迷宮化している可能性が高いわ。本当に特級クラスの呪霊ならば、それぐらいやってのけるもの」
「なん……」
伊地知が言葉を詰まらせていると、２人の目の前の扉が がたがたっと揺れた。
と、思った瞬間、式神の玉犬の片割れの黒と、蝦蟇を連れた伏黒恵と女生徒が現れた。
「恵君！！」
凛花が慌てて、伏黒の方に駆け寄る。
伏黒は、全力で走ってきたのか……満身創痍といった感じで、息をするのもやっとの様だった。
彼が蝦蟇で連れてきた女生徒を見ると、完全に気を失っている。
恐らく、彼女が五条の資料にあった「釘崎野薔薇」だろう。
凛花は、素早く伏黒と釘崎に触れた。
瞬間――ぱあああっと、淡い赤い光が二人の身体を包み込む。
「これは――」
それを見た瞬間、伊地知は息を呑んだ。
噂には聞いていたが、直にこの目で見るのは初めてだった。
「神妻凛花」の反転術式だ。
反転術式とは、「負のエネルギー」である呪力を掛け合わせることで「正のエネルギー」を生み出す術の事である。
この「正のエネルギー」によって人間を治癒することができるのである。
基本、この反転術式を扱えるものは限られており、中でも他者への干渉を出来る者はごく僅かだ。
しかも、反転術式の使用には通常の倍の呪力を消費するため、基本的には乱用できるものではない。
それなのに、凛花は迷わず平然と他者への干渉を行っていた。
それだけ、「緊急事態」だという事と同時に、凛花の能力が「神妻」の正当な力を有しているという証でもあった。
「神妻家」はその立ち位置だけではない。
その力は「補助」によって真価を発揮する一族だ。
「補助系呪術」において、「神妻家」の右に出る者はいないとまで言われている。
「う……」
微かに、伏黒の瞼が動いた。
凛花が、それに気づき手を離す。
「恵君？ 気が付いた？」
「え……、凛花、さ、ん？ どう、し、て……俺は……」
「話は後よ。３人で入ったって聞いていたけれど、もう1人の子はどうしたの？」
そう――出てきたのは、伏黒と女生徒の２人だけだったのだ。
１人――足りない。
瞬間、伏黒がはっと気づき慌てて立ち上がった。
「そうだ！ 虎杖が！！」
それだけで、凛花には通じたのか……直ぐに、立ち上がると、その手に ばりっと電気が走ったかのように、呪力を纏う。
「――１人残っているのね。伊地知さんは彼女と恵君をお願いします。私は今すぐ――」
「突入する」
そう言おうとした凛花の手を慌てて伏黒が掴んだ。
「駄目です、凛花さん！ 今入ったら―――」
「大丈夫よ。この程度の特級呪霊なら―――」
「そうじゃなくて――！！！」
「え？」
その時だった。
ずん！！ と、威圧感が辺り一帯に広がった。
びりびりと、肌が痙攣する様なその感覚に、凛花がその深紅の瞳を大きく見開く。
「な、に……」
先程まで感じなかった“それ”に、凛花が息を呑んだ。
普通ではない、その圧力に息をするのもやっとだ。
「恵君、中で何が――」
「……宿儺です」
「え？」
“宿儺”
そう呼ばれるのは、この界隈でひとつだけだ。
「両面宿儺」
腕が４本、目が４つ、口が２つの異形の姿をしたと言われる、千年以上前に実在したと言われる呪術師だ。
呪術全盛とされる平安の時代に、当時の呪術師達が総力を挙げて両面宿儺に挑んだが、誰も勝てなかったとされており、その存在は最早意志を持つ災いとも言われていた。
史上最強の「呪いの王」と称される存在――それが両面宿儺。
その力のあまりの強大さに、死してなお遺骸である２０本の指の死蝋は呪物と化し、それすら千年間に渡って誰も消し去る事は出来ずに、特級呪物として封印されている。
その宿儺の名が、何故ここで出てくるのか――。
「……宿儺の指があったの？」
まさか、今回の受胎は「宿儺の指」を持っていたという事だろうか？
そう思ったが、伏黒は小さく首を横に振った。
「違います。虎杖が――アイツが、以前 宿儺の指を飲み込んで、宿儺はアイツの身体に受肉しているんです」
「な……」
あの、「宿儺の指」を飲み込んだ……？
脳裏に、「ごめーん」と言いながら てへっと笑う五条の顔が浮かぶ。
そんな事、あの資料には一言も書かれていなかった。
間違いなく、わざと書かなかったのだ。
「えっと、凛花さん？ 五条先生から聞いて……」
「あの……馬鹿男……っ！！ 次会ったら、殴る！！！」
「……なかったんですね」
はぁ……、と伏黒が溜息を洩らす。
五条ならわざと言ってないなど、やりかねないので、フォローする気にもならなかった。
「一応、身体の主導権は基本虎杖が持っているので、宿儺を出し入れ可能なんです。今は、多分宿儺が……」
「出ているって事ね」
これでは、迂闊に突入出来ない。
となると――。
「とりあえず、伊地知さん。まず、避難区域を半径１０ｋｍまで広げてください。後、周辺にいる高専の補助員も全て退避を。そして、彼女を病院へ。応急処置はしたので、汚染される事はないと思いますが……。後、恵君も伊地知さんと一緒に避難を――」
「俺は、残りますっ！」
伏黒も一緒に避難させようとしたが、彼自身がそれを拒むように凛花の言葉を遮った。
「恵君？」
「凛花さんだけ１人残せません。それに――」
そこまで言いかけて、伏黒がぐっと拳を握り締めた。
これは、私情だ。
あの時、虎杖が宿儺の指を飲み込んだ時、五条に「死なせたくないから、何とかしてくれ」と頼んだ。
その責任は取らなくてはならない。
「……もしもの時、俺にはアイツを始末する責任があるんです」
「恵君……」
どうやら、伏黒と虎杖という少年の間には、凛花の知らない「何か」がある様だった。
だが、それは言いたくないのかもしれない。
「はぁ……、そういう所は、悟さんそっくりね」
凛花が、諦めにも似た溜息を洩らしながらそう呟いた。
頑固で融通が利かない。
けれど、他人を放ってはおけない――優しい人。
すると、何故か伏黒が不服そうな目で凛花を見ながら、
「あの……、五条先生と同じと思われるのは嫌なんですけど……」
「え？ ああ、悪い意味じゃないから。安心して？ 悟さんよりも、恵君の方がずっといい男の人だと思うから」
そう言って、ぽんっと伏黒の肩を叩く。
すると、伏黒が一瞬かぁっと、その頬を赤く染めて、視線を逸らした。
「俺は、別に……」
と、何かもごもご言っていた。
きっと、ここに虎杖や釘崎がいたら、間違いなくからかわれていただろう。
そんな様子の伏黒に、凛花はくすっと笑うと、
「それじゃぁ、その虎杖君が出てくるのを待ちましょうか。２人で」
そう言って、にっこりと微笑んだ。
出てくるのは、虎杖悠仁か、
それとも、両面宿儺か……。
何故かしら……。
凛花は天を仰いだ。
嫌な予感が……
――――消えない。
さてさて、ここからスタートでーす
ごじょー先生、しばし待てｗｗ
2023.11.17