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◆ 第1話 -信乃と荘介- 10
「……やっべえ」
小文吾が冷や汗を流しながら、足をそっと“それ”から除ける。
そこには、小文吾に踏まれた足の跡がくっきりと残った信乃が、倒れていた。
真夜は「はぁ……」と、溜息を洩らしながら、そっと小文吾の横を通り抜け、信乃の傍までやってくる。
「あの……」
真夜がそう小文吾に声を掛けると、小文吾が慌てて「は、はい!」と返事をするが……何やら、とても挙動不審だった。
「?」
真夜は意味が分からず、首を傾げる。
が……今はとりあえず、信乃である。
真夜がゆっくりとした動作で、そっと信乃に触れた。
「信乃?」
そう語りかけるが……やはり、反応はなかった。
完全に、伸びている。
こうなってしまっては、真夜の力ではどうにもならない。
と、その時だった。
不意にどこから現れたのか、黒衣の美しい青年の手が、すっと真夜の後ろから伸びてきたかと思うと、あっという間に信乃を抱え上げた。
「夜刀?」
真夜に“夜刀”と呼ばれた青年は小さく頷くと、傍にあった長椅子に、信乃を横に寝かせる。
「真夜、これを―――」
と、いつの間に用意されたのか……濡らした手拭いを夜刀が差し出してきた。
「ありがとう、夜刀」
真夜は素直に礼を言うと、信乃の目元にその濡れた手拭いを当てる。
その一部始終を見ていた、小文吾はごくりと息を吞んだ。
おいおいおい、まじかよ……。
噂にはちらっと聞いた事がる。
“教会”が、ひた隠しにしている“宝剣”。
その“宝剣”血の様に赤く、「紅桜」と呼ばれていて、その刀を宿す“モノ”がいる――と。
その名は「夜刀」。
またの名を「夜刀神」―――。
そして、彼女は今、あの黒衣の青年の事を何と呼んだが……。
「……あ、の?」
見られていることに気付いた真夜が、訝しげに首を傾げながら小文吾見た。
「なにか?」
「え!?」
不意に、真夜に話しかけられて、小文吾が慌てた様に、あたふたする。
それから、「え、いや、その……」と、どもりつつ、
「えっと……そいつ、だい、じょうぶ、か?」
と、恐る恐るそう尋ねた。
踏んだ本人が、それを聞いてくるのもどうかとも思ったが―――。
真夜は小さく溜息を洩らし、
「少し気を失っているだけだと思うので――大丈夫だと思います。……まぁ、身体だけはもう丈夫ですから……」
そう言って、優しく信乃の頭を撫でた。
その姿が、いつかの姉の沼蘭と被る。
昔もそうやって、小文吾が喧嘩して負けた時など、慈しむ様に頭を撫でてくれた。
だが、彼女は姉の沼蘭ではない。
沼蘭は、あの時確かに……。
今でも手に残る感触。
冷たくなった姉の身体。
塗れた髪。
閉じた琥珀の瞳―――。
小文吾達が憲兵に呼ばれて向かった先の橋の傍で、もの言わぬ身体となり果てていた。
その横で、沼蘭の恋人だった現八が、声を殺して泣いていたのを今でも覚えている。
あの風景は、今でも忘れられない……。
そしてその沼蘭と、瓜二つの雰囲気を持ち合わせた目の前の美しい少女―――。
その彼女に、付き従う様に現れた「夜刀」という青年。
どういうことだよ。
小文吾がぐっと拳を握りしめた。
すると、すっと真夜が立ち上がり、小文吾の方を見た。
何もかも見通すような琥珀の瞳に、魅入られそうになる。
真夜は、少しだけ柔らかく微笑むと、
「申し遅れました――私は、夜刀神真夜と申します。彼は私の連れで夜刀と言います」
言われて、真夜の傍に居た黒衣の美しい青年が頭を垂れる。
「夜刀神……」
という事は、やはり彼女らは……。
ちらりと、真夜と夜刀を見た後、横たわる少年を見る。
その首元からちらりと、十字架の首飾りが見えていた。
それは、「教会」の人間である証だった。
よく見れば、真夜も夜刀も その身にクロスの装飾を付けている。
“教会”。
出来る事ならば、関わり合いになりたくないところだ。
が……、信乃を踏んでしまった手前、「じゃ!」と、去るわけにもいかず……。
「よろしければ、お名前を伺っても?」
ふと、真夜が小文吾にそう尋ねた。
真夜のその言葉に、一瞬 小文吾が息を吞む。
ああ……。
あの時と一緒だ。
初めて小文吾の姉である沼蘭が、“彼”対して言った言葉。
『よろしければ、お名前を伺っても?』
彼女はそう言って、“彼”に微笑んだ。
だが、微笑んだ彼女はもう―――。
どうしてだよ、姉貴……。
せっかく、俺達あの“北部戦線”から帰ってきたのに。
「あの……?」
こちらを見たまま黙りこくってしまった小文吾に、真夜が戸惑いの色を見せる。
聞いてはいけない事だったのだろうか?
と、一瞬不安が過ぎった。
だが、小文吾のその瞳は、真夜自身ではなく、誰か別の人を見ている様に思えた。
その時だった。
「う、うん……」
信乃が微かに声を洩らした。
真夜がはっとして、信乃の方を見る。
「信乃? 気がつい―――ぐうううううううう
突然、聞こえてきた信乃の大きなお腹の音に、真夜がその大きな琥珀色の瞳を瞬かせる。
「信乃……?」
真夜が訝しげに信乃を見ると、信乃は小さな声で……、
「は……」
「は?」
「はら、減った……むり~~~」
小文吾が信乃のその言葉に、「ぷはっ!」と吹き出した。
「……信乃……」
真夜が呆れにも似た溜息を洩らす。
だが、よくよく考えれば、朝村を出た後、まともに食事をしていない事を思い出す。
「あの、すみま……」
真夜が観念した様に、近くの茶店の店員の声を掛けようとした時だった。
ふいに、小文吾の方が大きな声で、
「スンマセ――ン! なんか、食い物テキトーに頼むわ」
小文吾がそう言うと、ウェイトレス風の女性がくすくすと笑いながら、
「畏まりました~少し、お待ちください」
そう言って、茶店の奥へ入っていった。
「あの……?」
真夜が困惑した様に、小文吾を見る。
すると小文吾はにかっと笑い、
「いいって、いいって――。どうせ、お前ら旧市街のヤツじゃねえよな? 俺はこのあたりは、殆ど顔見知りだからさ。まぁ、さっきの“詫び”も兼ねて、な?」
そう言って、胸をどんっと叩いた。
―――数分後
「んぐ、んぐんぐんぐ、あ、おねーさ――ん! 焼き鳥おかわり!! 後、それにオムライスセット! デザートは抹茶パフェ・スペシャルで!!」
「……」
ぴくぴくと、小文吾の眉間の皺が寄る。
真夜は珈琲だけ飲みながら、ちらりと小文吾を見た。
信乃ががっついている横には、空になった皿とどんぶりが山の様に積んである。
正直、見ているだけで、胃もたれしそうだった。
「はぁ~~~~~~~~~~~」
と、小文吾が重~~~~~い溜息を洩らす。
手持ちの財布の中身を見ながら……。
「とんでもねぇ、欠食児童拾っちまったぜ……」
と、もはや心の内が駄々洩れである。
それはそうだろう。
この小さな信乃の身体のどこに、こんな量の料理が入るのか。
と、誰もが思うだろう……。
まるで、ブラックホールに投げ込んでいる様な気分になる。
「あの……」
流石に、居たたまれなくなったのが、真夜がおずおずと口を開いた。
「やはり、お支払いは私が……」
と、助け船を出そうとするが――。
小文吾も男だ。
一度言ったことを、ここで撤回するのはプライドが許さなかった。
「いや、だ、大丈夫だ! はは、はははははは」
「……」
最早、苦笑いしか浮かばないのか……心なしか、顔が引き攣っている。
しかし、そこまで言い切られると、真夜もこれ以上言い出し辛かった。
本当に、いいのかしら……。
そんな事を思っていた時だった。
「おい、お前、信乃って言ったな? 観光できたのか? どこの宿泊ってんだ?」
小文吾が諦めにも似た溜息を洩らしながらそう、信乃に問う。
が、当の信乃はあっけらっかんと、
「知らね。覚えてない」
「はぁ?!」
信乃からのまさかの回答に、小文吾が素っ頓狂な声を上げる。
いや、待て待て。
こんな子供ガキ一人なはずねーし……保護者がいる筈。
そう思うも、信乃はただ今デザートの抹茶パフェ・スペシャルにご満悦だ。
信乃に聞いても仕方ないと判断したのか、小文吾が真夜とその後ろに控えていた夜刀に声を掛けた。
「真夜……だったよな? お前は覚えてる……よな? 自分達の泊ってる宿」
そう言われた瞬間、一瞬意味が分からず真夜が首を傾げる。
「宿……ですか? 私は宿ではなかったので―――」
そこまで言いかけた時だった。
夜刀が真夜に何か耳打ちしてきた。
それで納得いったのか、真夜が小文吾を見ながら、
「信乃達の泊る宿ですか? 名前だけなら―――」
と、その時だった。
「真夜、必要ねぇよ。だって、真夜は旧市街は詳しい訳じゃないんだろ?」
言われて真夜が申し訳なさそうに、苦笑いを浮かべた。
それを見て小文吾は悟った。
しっかりしてそうなのに、真夜も宿への道を知らないのだと。
「つまり、二人そろって迷子かよ……」
小文吾が「はぁ~~~~」と、溜息を洩らした。
「平気、迎えは呼んだし」
「あーはいはい、とりあえずそれ食ったら送ってくから、宿の名前を――って、迎え?」
って……いつ!!!?
小文吾が、すかさず突っ込もうと時だった。
『ギャア、ギャア』
突然、謎の鴉が飛んできたかと思うと、小文吾達の席にある小窓に止まった。
そして、ととと……と、信乃の肩に移動する。
「あ、ホラ来た」
「は……?」
一瞬小文吾は、信乃が何を言っているのか分からなかった。
が、今度は下の方から……。
「わん!」
何故か店内なのに、そこには白黒の犬がちょこんと座っていた。
今度こそ、小文吾は自分の目を疑った。
か・・・・・・烏と犬のお出迎え!!!??
小文吾が放心している時だった。
信乃が元気よく、
「ごちそーさん!! 真夜、行こうぜ!!」
そう言って、真夜の手を引く。
真夜は一瞬小文吾を見て、小さく頭を下げるとそのまま信乃の後について行った。
「…………はっ!」
瞬間的に、小文吾が我に返る。
そして、真夜を引っ張って走り去ろうとする信乃に、
「って!! ちょ、ちょっと待て! 信乃、真夜―――」
小文吾が慌てて追いかけようと席を立ちかけた時だった。
突然、目の前に謎の紙が差し出された。
この店の、店員だ。
「え?」
差し出された紙切れを見る。
「いい!!?」
そこには、書き間違えかと思う程の、とんでもない額が書かれていた。
つまり、請求書である――信乃がほぼ一人で食べた料理の。
「……鬼より怖えぇ、悪魔の欠食児童」
そうぼやいて、がくっと肩を落としたのだった。
その後、それを、「スンマセン、ツケで!!」と、小文吾が叫んだのは言うまでもない。
「信乃、遠くへ行かない様に、いつも言っている筈ですよ?」
四白の姿の荘介のその言葉に、信乃は苦笑いを浮かべながら、
「いやぁ……つい、足がふらっと……」
と、信乃が苦笑いを浮かべながらそう言う。
それから、後ろを歩いている真夜を見て、
「真夜は知ってるか? 俺らのいたとこ」
そう問われて、真夜が首を傾げた。
「ごめんなさい、基本的に旧市街に一人で降りることはないから―――」
とどのつまり、分からない。
と、いう事である。
真夜のその答えに、荘介は小さく息を吐き、
「――ところで、さっきの方はどなたです?」
そう尋ねるが、信乃はあっけらかんと、
「知らね。いきなり飛んできて下敷きにされたんだ。詫びの代わりに飯食わせてもらった」
信乃……。
あの量は、最早詫びの範疇を超えていたわよ……。
と、口の端まで出そうになった言葉を、真夜が吞み込む。
真夜は、気を紛らわそうと、歩きながら通りを見た。
ふと、屋台の面が視界に入る。
そこには、鬼の面が飾られていた。
鬼……。
「そういえば、鬼がどうとか……」
「真夜?」
荘介に名を呼ばれ、真夜がはっとする。
「あ、ううん、その……少し気になる事が……」
「……?」
荘介が首を傾げる。
「――そういやぁ、鬼がどうとか言って揉めてたな」
「鬼?」
信乃の言葉に、荘介がそう返す。
「鬼が出るんだってよ、妖を喰らう鬼」
「……それはまた、人にとってはいい話なんでしょうね」
「ん――でも、なんか寺の坊主に捕まっちまったんだと」
「……? 妖を喰らう鬼が、ですか?」
「……変なの。人を喰らう鬼ってのなら判るけどサ」
「そうですね……」
と、その時だった。
『鬼はヒト ヒトは鬼―――』
「村雨?」
村雨がそう呟いた時だった。
「真夜!!!!」
突然、後ろから真夜を呼ぶ声が聞こえてきた。
はっとして信乃と荘介が振り返ると、真夜が夜刀の腕の中でぐったりと倒れていた。
「――真夜っ!?」
信乃と荘介が慌てて、真夜の方に駆け寄る。
「おい、真夜!!」
「一体、急にどうし――――――」
荘介がそう声を洩らした時だった。
真夜が微かに、その唇を動かした。
「……め、て…………」
「え?」
そしてそのまま、真夜の意識は沈んでいったのだった――――。
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―――帝都・旧市街 笙月院
「……何ぞ、先ほど門前が騒がしかったの。面倒でもあったか?」
上座に座る、この笙月院の僧主・明光がそう尋ねた。
すると、控えていた青蘭、他二名が頭を垂れ、
「――は、ノラ犬が入り込んだだけの事。お耳障りで申し訳ありませんでした」
明光は「そうか……」とだけ頷くと、青蘭を見た。
「それにしても青蘭。お前が捕らえたあの“鬼”は妖を喰らうそうな」
その言葉に、青蘭は小さく頷き、
「はい――明光様」
「ならば、あのまま街に放っても―――」
明光がそこまで言いかけた時だった。
まるで、その言葉を遮るかのように青蘭は大きな声で、
「――いいえ。妖とて喰われれば減ります。その減った数を埋めるのは人でしかありますまい。鬼は善も悪も分かりませぬ、ただ喰らうのみです。あれは―――」
―――いつか、ヒトを喰らうただの“鬼”です。
新:2025.05.18
旧:2021.03.30

