桜散る頃-紅櫻花- 

 

 月下の舞姫と誓いの宴 6

 

 

 

 

「……………」

 

しんしんと雨が降っていた

ポタ…ポタ…と開いた窓に雨水が滴り、落ちる

 

外に咲く、紫陽花が雨を弾きまたぽたりと雨水を落とした

 

紗羅は、ぼんやりと椅子に座ったまま窓辺に寄りかかり、外を眺めていた

 

ポタ…ポタ…と、また雨水が滴り落ちる

それを写した、虚ろな紗羅の瞳は何者も拒絶する様な曇った瞳をしていた

普段、笑みを浮かべ、可憐に微笑む彼女の姿からは到底想像が付かない様な瞳だった

 

ポタ…ポタ…と、また雨が滴る

ピチャン…と雨が窓辺に当たって、紗羅の衣に反射した

 

ピチャン…ピチャン…

雨脚が強くなってきたのか

次から次へと、雨が紗羅の衣を濡らす

 

「……………」

 

それはいつしか紗羅の顔にも掛かり、彼女の頬を濡らした

いや、それは雨ではなかったのかもしれない

 

彼女の瞳から 大きな眼から溢れんばかりの涙が 一滴――――

ツゥ―――と孤を描くように、その頬を涙の色で染め上げていった

 

また、一滴 流れた

 

流れ出た涙は、枯れる事無く、溢れ出て、彼女の衣に淡い染みを作った

 

あの日――――

今から3日前の夜、趙雲が久方ぶりに紗羅の元を尋ねてきた

 

少し、疲れた様なその表情には、久しぶりに紗羅を見た喜びが溢れ出ていた

また、それと同士に、何か不安の様なものを感じ取らせた

 

趙雲は持って来た二振りの剣――――

 

 ――――倚天と青釭――――

 

あの男が、作らせた二振りの双子剣

 

紗羅が趙雲を初めて見たのはいつもの様に最前線に出ていた月夜の晩

劉備の横にいた趙雲の瞳を見た

 

……あんな綺麗な瞳をした人、初めて見た……

 

紗羅は心臓を打ち抜かれた気分だった

 

迷いの無い澄んだ瞳を持つ人……

 

国にはそんな瞳を持つものは誰もいなかった

皆、酷く淀んだ瞳をした者ばかりで 汚い…とさえ感じたほどだった

 

夏候惇から彼の事を聞き蜀の五虎将の趙将軍だと知る

 

もう一度、彼を見たいと思ったがその思いは叶わず、一度も見ることは出来なかった

だが、その噂(武勇)だけは良く耳にする事が多かった

 

蒼い鎧に身を纏った蜀の五虎将 趙子龍様……・

 

自分のこの気持ちが何なのか彼女には分からなかったが、彼の事を考えている時だけは本当の自分に戻れた気がしていた

 

ただ、それだけ

きっかけはそれだけ、だった

 

一瞬に引き込まれた澄んだ瞳が、紗羅を惹きつけた

 

趙雲様……

 

想うだけで、心が溢れ出てくる様だった

初めて、これが”恋”なのだと知った

 

知ったと同時に、絶望に打ちひしがれた

 

これは叶わない恋

成就しない恋

 

何度も、そう言い聞かせ、ただその噂を聞くだけで良いと

一目お逢い出来るだけで良いと――――

 

その言葉を聞くだけで、声を聞くだけで心躍った

 

だから、あの日

長坂でのあの日、助けずにはいられなかった

 

あの人は自由に生きて欲しい

自分の様に囚われてはいけない

 

そう思う、心が紗羅の身体を動かした

 

だから、危険を承知で手を貸した

後悔はしていない

 

あの日、あの時、あの人に掛けてもらった言葉さえあれば生きてゆける

 

そう、思った

 

  『そなたも一緒に行かぬか?』

 

敵である自分を見逃す所か、彼は一緒に行かないかと声を掛けてくれた

 

その言葉は、一瞬にして紗羅の心に降ってきた

ふわふわと暖かい気持ちになれた

 

自分は、間違っていないと 思えた

自分の行動は、間違ってはいなかったと

 

自然と笑みが零れる

 

どこまでも、どこまでも優しい人

 

 

 『――――その剣は”青釭”と言います。私の持つ剣”倚天”の双子剣です。代わりにそれをお持ち下さい』

 

 

そう言い残し、紗羅は去った

 

趙雲が仲間の声に気を取られてる間に、彼の傍を離れた

 

これ以上、傍に居れば離れられなくなる

自分は、彼の傍に居ても有益にはならない

いや、居てはいけない

彼の為を思うならば、傍に居てはいけない

 

自分が傍に居るという事は、あの男の逆鱗に触れるという事

 

だから、離れた

少しでも、遠くに行きたいと、離れた

 

なのに――――

 

自分は何をしているのだろうか……

 

あの日、彼の元を去ったのは何の為だったのか

こうして、彼を危険に晒す為じゃない

 

いや、今は害がないかもしれないが、この先は分からない

 

私はこの蜀の敵国の者

そして、あの男に近しい者

 

国ではあの男の愛妾と呼ばれ、”蒼の姫”と呼ばれた存在

 

私の存在は趙雲様を危険にしか晒さない

 

だから、あの男に知られる前に、ここを出なければならない

そう――――思ってきた

 

だが、現実だどうだ

のうのうと、居座り、彼を彼の国を危険に晒してるではないか!

しかも、存在まで疑われ……

 

「……………」

 

紗羅はギュッと倚天を握り締めた

 

長坂で趙雲を助けた事に後悔はない

だが――――

 

「こんな剣、受け取らなければよかった」

 

倚天と青釭

まこと事なき、これが事実

 

趙雲に知られた

 

いや、まだ確信は持ってないかもしれない

だが、もう時間は無かった

 

もし、事実が露見すれば、趙雲は自分をどう思っただろうか

穢れた存在だと思っただろうか

実は、月夜叉で、あの男の愛妾で、血に塗れた穢れた存在だと

 

騙していたと、嘘偽りを申していたと

罵倒し、罵ってくれればいっそ楽になれたものを

 

あれから、趙雲には会っていない

 

会えば、何を言われるか……怖かった

初めて、真実から怖いと 思った

 

足が、怖くて動かなかった

 

真実から目を背けたいと 事実思った

でも――――

 

ポツ…ポツ…と雨が室に入ってきていた

ピチャンと紫陽花の花弁が揺れ、雨を散らす

しとしと と雨が降り注いでいた

 

紗羅はゆっくりと目を閉じた

 

 

もう、逃げられないのだ――――

 

 

「くぅぅん」

 

 

傍に来た、黒曜が鳴いた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ………」

 

趙雲は城の廊下で、盛大なため息を付いていた

 

あれから3日

紗羅は姿を現さなかった

 

咎めたいんじゃない

追い詰めたいんじゃない

 

ただ、事実が知りたいだけ

彼女の言葉で、声で真実が紡がれるのを期待していた

 

だが、出た言葉は”拒絶”の言葉だった

 

『それだけ、です』

 

そう言って、微笑んだ顔の奥底で彼女が泣いている様に思えた

 

自分は、間違った事をしたんじゃないか

この剣は出すべきではなかった、と後悔した

 

だが、時既に遅し

彼女の瞳は疑心に揺れていた

 

「違う……私は……」

 

違わない

自分は彼女を疑ったのだ

 

彼女がもし劉備に害をなす為に自分に近づいたなら、斬らなければならない――――

 

一瞬、心の中で何かがそう囁いた

 

彼女が魏の者で、曹操の手の者ならば……

 

「違う」

 

違わない

 

「違う!」

 

違わない 

自分は――――

 

 

 

「ちがう!!」

 

 

 

 

その声は、予想以上に大きく響き渡った

 

シン…と辺りが静まり返った

廊下を行き交う文官達が不思議そうに趙雲を見ていた

 

しんしん と、雨が降り注ぐ

ピチャン…ピチャン…と雨が庭園の花々を揺らした

 

趙雲はふと、目を留めた

 

そこには、いつしか紗羅と会った東屋が建っていた

 

「……………」

 

趙雲は、ゆくりとその東屋に近づいた

雨が頬に当たるのを無視して、外に建っている東屋に足を向けた

 

あの日、抱きしめたぬくもりは、もう ない

あの日、彼女をこの胸に抱いた感触はもう、残ってない

 

「…………っ!」

 

趙雲がギュッと拳を握り締めた

 

何をしているんんだ…自分は

彼女を追い詰める為に、傍に置いたんじゃない……

私は……

 

趙雲は、グッと前を見据え、力いっぱい拳を東屋の柱に叩き付けた

 

「しっかりしろ!超子龍!!」

 

私は……っ!

 

自分に、そう言い聞かせると、足早に、城から飛び出して行った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……………」

 

紗羅が、室から出て廊下を歩いていると、ふと見覚えのある形が視界に入った

それがある室に入り、それを手に取った

 

「二胡………」

 

それは二胡だった

擦弦楽器の一種で、2本の弦を間に挟んだ弓で弾く楽器だ

 

だれの物だろうか……?佳葉?

 

紗羅は少し考え、そっと、窓辺に座り、二胡を膝に置いた

 

二胡を弾くのは久しぶりだった

弾かなくなって、どのくらい経っただろうか

 

楽器は、二胡・箏・笛 一通り習った

だが、曹操の為に弾くのが嫌で、その弓を投げた

 

あれから、どのくらい経ったか……

 

そっと、紗羅は二胡の弦に触れた

指を絡ます

そして、ゆっくりと弓を引き出した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁ…はぁ……」

 

趙雲は、早馬で自邸に戻った

鐙から降り、足早に戸口に駆ける

 

「紗羅殿!」

 

逢わなければ……!

 

何故か、このまま紗羅に会えない様な気がした

紗羅が居なくなてしまう気がした

 

何故か、強く そう思った

 

いなくなってしまう

 

 

「紗羅殿!!」

 

 

趙雲は叫びながら邸の中を翔った

 

 

「紗羅殿ー!!」

 

 

自室には居なかった

 

益々、嫌な思いが駆け巡る

もう、出ていってしまったのか

 

 

 

「紗羅殿――――!!!」

 

 

 

その時だった

ふと、何かの音が聴こえてきた

 

「………?」

 

何処の室から聴こえるのか

その美しい音色は、趙雲の心を冷静にしていった

 

足が、自然とその音色のする方に向く

 

ある、一室にたどり着いた

そっと、半開きになった扉に手を掛ける

 

「………っ!」

 

中を見た瞬間、趙雲の心臓が揺れた

 

紗羅が――――居た

 

 

紗羅はゆっくりと二胡の弓を引き、その音色を奏でていた

 

「紗羅殿……」

 

その声に、ハッとして紗羅が弓を止めた

 

「趙雲様……」

 

一瞬、紗羅の表情が困惑する

 

だが、趙雲はそれに気付かなかった

紗羅が居た事に、安堵し 見落とした

 

「よかった…まだ、居てくれた……」

 

そう漏らし、はぁーと額に手を当て、安堵する

 

「趙雲様」

 

紗羅はにっこり微笑み、弓を置いて、趙雲の傍にやって来た

 

「どうかなさったのですか?」

 

そう声を掛け、そっと趙雲の肩に触れた

趙雲は、少し恥ずかしそうに微笑み

 

「……杞憂で良かった」

 

「………?」

 

「いえ、何でもありません」

 

慌てて、そう言い直し、ふと紗羅が持っている二胡に目が行った

 

「それは……?」

 

「え?ああ、二胡です。お聴きになりますか?」

 

そう言うと、紗羅は再び窓辺に座り二胡を奏でだした

ゆっくりとした美しい音色が室を満たしていく

 

良かった…紗羅殿は、ここに居る……

 

趙雲は、室にあった椅子に腰掛、しばし二胡の音色に耳を傾けた

 

紗羅殿は何処にも行かない

 

今、思えば あの時何故かそう思ったのか

 

 

 

 

   全ては、この時、決まっていたのに――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

紗羅はゆっくりと弓を止めた

趙雲の方を見て、ゆっくりと微笑む

 

趙雲はいつしか、二胡の音色に導かれる様に眠りの淵に付いていた

紗羅は二胡を置き、そっと、趙雲の肩に寝台から持って来た毛布を掛けた

 

規則正しい寝息が聞こえてくる

恐らく、疲れが出たのだろう

 

紗羅はそっと趙雲の髪に触れた

ふわっと柔らかい髪は、紗羅の手をすり抜け、スルッと落ちた

 

「……………」

 

紗羅は、じっと趙雲を見つめた

 

雨が上がった夕日が室に差し込んでいた

日の日差しが、紗羅と趙雲の影を伸ばす

 

紗羅は、そっと扉に手を掛け、ゆっくりと振り返った

 

「………趙雲様」

 

声にすると、感情が溢れ出てきそうになった

 

紗羅はグッと堪え、一度、目を瞑ると、再び目を開けた

 

そして、ゆっくりと微笑み

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「………さようなら、趙雲様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  夕日が差し込む、夕暮れの時間だった

 

 

 

              その日、紗羅は 姿を 消した――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やっとここまで来た――――!!

このシーンが書きたかった!

 

って、喜ぶようなシーンじゃないですけどねぇ・・・・・・

 

2009/08/01