◆ 月下の舞姫と誓いの宴 17
不思議な感覚だった
行く時はあんなに苦しくて辛かったのに
今、こうして成都に向かっているのはとても心が穏やかだった
それもそうだろう
死を覚悟して成都を――――趙雲の傍を離れる事を決めた
過去を知られて、もう一緒にいられないと思った
それに―――――これ以上傍にいてはきっと辛くなると思った
長く傍いればいる程想いは募って行く
報われる訳ないのに―――
最初はこんなに近くにいられるのが信じられなかった
憧れだけで、想うだけでいいと思っていた
でも、こうして本人を目の前にするとどんどん欲が出てくる
想って欲しい
傍にいさせて欲しい
触れて欲しい――――
叶う筈ないのに
そんな風に思う自分が酷く醜くて
嫌で嫌でしかたなかった
自分は人を殺してきた――――
何十・何百万という人をこの手で殺めてきた
そうする事で、自分を守って来た
曹操に従う事で、自分を守ったのだ……
全ては保身の為
そうするしかないと、思っていた
誰にも頼る事は出来ず
また、目の前で自分のせいで無実の人が殺されるくらいならば――――
いっそ自分で手に掛けた方がいい――――
それしか思い浮かばなかった
そうして、自分の“心”と“身体”を守って来たのだ
それを知られた――――
自分の手も心も全て、血で汚れきっている―――――
こんな醜く、嫌な自分を趙雲に見られたくなかった
耐えられなかった
だから、去った
いや違う
逃げたのだ
趙雲から、現実から、人から
逃げたのだ
あの時と一緒―――――
曹操に目の前で“見せしめ”として殺された人たちから逃げたのと一緒
帰る場所も、行ける場所もなく
だからと言って、趙雲の近くにいて軽蔑されるのを恐れ――――逃げた
逃げて、死のうとした
そうする事で、全ての人への償いとしようとした
自分が生きている事で、良い事など何一つない
周りに被害を広げるだけ
やっぱり、あの鳥籠から逃げてはいけなかったのだ
あの場所から出てはいけなかった
誰にも知られず、誰にも気づかれず
ただ、静かに曹操の“もの”として「人形」の様に生きているだけだったならば――――
違って…いたのだろうか……
心を殺し、身体を委ね、感情を消す
そうして、「人」としてではなく「人形」と化せばよかったのかもしれない
そうすれば、こんなに辛い思いをする事も無かった―――――……
でも……
「外」を知っていたから……
空も風も大地も全て―――――………
この身で感じ、触れる
それが心地よいものだと知っていたから――――
少しでも「自由」が欲しくて
「外」に出たくて
その手に剣を取った
でも、それは間違いだった
そう――――取っては行けなかった――――……
けれども
そうして初めて――――“趙子龍”という人を知った
初めてだった
あんなに惹かれたのは――――…
その綺麗な曇りのない瞳も
真っ直ぐ前を見据える横顔も
何よりも、主に尽くすその誠実な心も
全てに惹かれた
趙雲を想うだけで、殺した筈の心が蘇っていった
少しでも知りたくて夏侯惇に話を頼んだ
その名前を聞くだけで
その姿を思い浮かべるだけで、心が 感情が戻ってくる
想うだけでいいと
時折でいい――――すれ違うだけでいいと
そう―――思っていたのに
いざ、傍にいると怖くなった
もし、趙雲に今まで自分のしてきた事を知られたら
もし、曹操に趙雲の事を知られたら
もし――――――
背筋がぞっとした
もしも…曹操に趙雲の事を知られれば――――殺される
目の前で、自分と話しただけで殺された人達と同じ様に―――――趙雲が殺されてしまう
だから、駄目だと
傍にいては駄目なのだと 思った
それなのに―――――
『私が貴女を守ります』
『愛しています。―――傍に居てください』
守ると……
愛していると――――……
人とはなんと単純なのだろうか…
そう言われて、喜んでいる己がいるのを感じずにはいられなかった
それと同時に、駄目だと
駄目なのだと言う自分もいた
でも、ずっと願っていた事が目の前にあるのに抗えなかった
人とは愚かだ
趙雲にそう言われるだけで、心が躍る
嬉しいと――――思ってしまう
傍にいていいのだと――――――
駄目なのに……
どうしても、その甘い誘惑に勝てる気がしなかった
結局、こうして趙雲と一緒に成都に向かっている
このまま行っていいのだろうか…と思う反面、心が満たされている
こんなに幸せを感じたことなど
これまで一度としてなかった―――――……
だから、怖い
いつか、この“幸せ”が壊れてしまうのではないかと……
それが酷く 怖い
このまま本当に成都に行ってもいいのだろうか…
その思いは、成都が近づくにつれてどんどん強くなっていった
馬に揺られながら後ろにいる趙雲を見る
紗羅の視線に気付いた趙雲が、ふと自分の前に座る紗羅を見て微笑んだ
「もうすぐですね」
「は、はい……」
嬉しそうな趙雲とは裏腹に、紗羅の心はますます沈んでいった
それに気付いた趙雲が、ふと紗羅を抱き寄せる手に力を込めた
「…………っ」
突然の行為に、紗羅がぴくりと肩を揺らす
知らず、身体が熱くなっていくのが分かる
「あ、あの…趙雲さ、ま……」
紗羅が溜まらず声を上げた時だった
趙雲が更にぐいっと抱き寄せてきた
そして
「……怖いですか?」
「え……」
「成都に…皆に会うのが怖いですか?」
一瞬、核心を突かれどきっとする
そう――――怖い
怖いのだ
「………………」
だが、紗羅はその言葉を口にするのを躊躇った
「怖い」と子供の様に素直に言えたらどんなに良かった事か――――……
でも、今の紗羅にはそれを口にする勇気が無かった
すると、趙雲の抱き寄せる手に力が籠った
「安心して下さい。 貴女の事は必ず――――私が護ります」
趙雲の言葉が紗羅の中にじん…と染みわたる
「趙雲様……」
紗羅はそう呟き、静かに目を閉じた
感じる――――趙雲の温もりが
そうだ、私はずっとこの人のこの手に護られてきた―――――……
だから――――……
そっと、自身の手を趙雲のそれに重ねる
大丈夫……
「紗羅殿?」
趙雲がそう尋ねると、紗羅は小さな声で「大丈夫です」と答えた
そして、ゆっくりと振り返り趙雲の綺麗な碧色の瞳を見て微笑んだ
「趙雲様…ありがとうございます。 私―――…趙雲様がいて下さって本当に良かったと思います」
「紗羅殿……」
趙雲が一瞬驚いた様にその瞳を瞬かせた後、静かに微笑んだ
不思議だった
趙雲が微笑んでくれているだけで、安心する
あれだけ不安だったのが、嘘の様に吹き飛ぶ
ああ…私……
改めて実感する
この人の事を好きになって良かった――――――と
紗羅はもう一度小さな声で、「ありがとうございます」と呟いた
成都の大門を通り、大通りを馬を降りて進む
街の人達は変わらず楽しそうだった
趙雲を見て、皆「趙雲様」と声を掛けてくれる
それが不思議と紗羅には新鮮に見えた
魏では違った
一度だけ馬車に揺られて都の風景を見せてもらった事があった
その時、都の人がしていたのは――――曹操に向かって頭を下げる事
誰もが、曹操の行列を見て頭を垂れた
確かに、曹操と趙雲では身分も立場も違う
だが、もし趙雲が魏にいたならば、皆頭を垂れていただろう
それぐらい、曹操の力は圧倒的だった
圧力―――――と言うのかもしれない
頭を下げなければ―――――その先が怖くて皆下げていた
その顔には笑顔も幸福もなかった
あるのは下げなければいけないという義務感 恐怖 重圧
そういったものしか感じられなかった
でも、ここは違う
皆、楽しそうに話し掛けてくる
それだけ、曹操と劉備の治世の違うと言うべきか……
知らず自然と笑みが浮かんだ
突然笑い出した紗羅を見て、趙雲が首を傾げる
「どうかしました?」
不思議そうに尋ねるものだから、ますます笑ってしまった
「いえ、趙雲様は皆様に慕われていらっしゃるのですね」
紗羅がそう言うと、趙雲が「ああ…」と声を洩らした
「そんな事はありません。 全て殿のお陰ですよ」
「劉備様の…?」
紗羅の言葉に、趙雲は頷いた
「はい、殿が民の皆を慕っているから、皆も殿を慕ってくれるのです。 私はそのおまけの様なものですよ」
そう言って、くすっと笑みを浮かべる
「そんな事ない」そう言ったところで、きっと趙雲は認めないだろう
だから紗羅も静かに頷き
「そうなのだとしたら、素敵ですね」
その時だった
誰かが「おねえちゃん」と話し掛けて来た
「え?」
一瞬、誰の事かと思い紗羅がその蒼い瞳を瞬かせる
すると、趙雲が「紗羅殿」と声を掛けてくれた
「あ……」
見ると、通りの一角から小さな女の子が たたたっと翔って来た
その姿があまりに可愛らしくて、思わず笑みが零れた
しゃがんで女の子と同じ目線にすると、「はい」と何かを渡された
それは一輪の小さな花だっ
「これは?」
そう尋ねると、女の子がにっこりと微笑んだ
すると、趙雲がそっと「受け取ってあげてください」と耳打ちしてくれる
紗羅はそっとその花を受け取る
それは、白くてとても小さな花だった
「可愛い……」
思わずそう声を洩らした時だった
「おねえちゃん、ちょううんさまのおよめさま?」
「え……」
一瞬、何を言われたのか分からず、その蒼い瞳を瞬かせる
今なんて……
瞬間、紗羅の顔がかぁっと赤くなる
「あ、あのね……」
慌てて言い繕うとした時だった
ふと後ろにいた趙雲が、紗羅の傍で姿勢を低くして
「残念だけどまだなんだ。 でも、近い将来そうなる人だよ」
ぎょっとしたのは紗羅だ
顔を真っ赤にして慌てて口を開く
「ちょ、趙雲様……っ、何を―――――」
そう言い募ろうとした瞬間、趙雲が「しー」と口元に指を立てた
「子供の言う事ですよ」
「で、ですが……」
尚も言い繕おうとした時だった
女の子がふふっと笑った
「やっぱりー! そうだと思った! だって、おねえちゃんもちょううんさまもとってもうれしそう!」
それだけ言うと、ばいばい!と手を振って女の子がまた出てきた時と同じように翔って行った
それを見届けた後、紗羅は火照った顔を押さえながら
「ちょ、趙雲様…真に受けられて変な噂が立ちでもしたら、お困りになるのは趙雲様なのですよ…それなのに…」
もごもごとそう口籠ると、突然趙雲が微笑みながら
「私は今すぐにでも貴女を妻として娶りたいと思っていますよ」
「え……」
今なんと――――……
「紗羅殿は、私の妻になるのはお嫌ですか?」
「そ……」
紗羅が益々顔を赤くさせる
「……そんな、こと…は……」
言葉が上手く綴れない
だが、趙雲には伝わってしまったのか、嬉しそうに微笑んで
「良かったです」
と、笑った
顔が熱い
恥ずかしさのあまり、何処かへ消えてしまいたいぐらいだ
趙雲様が私を妻に……?
そんな事ある筈ない
そう思わなければ、嬉しくて死んでしまいそうだ
期待しては駄目だと、必死に自分に言い聞かす
そうしている内に、趙雲の屋敷の門が見えてきた
「あ……」
懐かしい――――
そう、見慣れた光景なのに、それが酷く懐かしく感じた
「やっと、到着ですね」
「は、はい」
思わず、門をくぐるのを躊躇ってしまう
趙雲は馬番に愛馬の世話を頼むと、ふと門の前で躊躇している紗羅が目に入った
「紗羅殿?」
趙雲がそう呼ぶと、紗羅は はっとした様に顔を上げた後、また俯いてしまった
「…………?」
どうしたのだというのだろうか
趙雲が不思議に思い、紗羅の元へやってくる
すると紗羅はまるで門をくぐるのを躊躇っている様だった
「紗羅殿、怖いですか?」
そう尋ねると、紗羅がぴくりと肩を震わせた
それから、もう一度趙雲を見て、小さな声で「はい…」と答えた
「私…本当にここを通っても宜しいのでしょうか……」
ぽつりとそう呟く
すると、趙雲が突然すっと右手を差し出してきた
「……………?」
趙雲の意図が読めず、紗羅が首を傾げるが
次の瞬間分かったのか、一瞬躊躇いながらも趙雲のそれにそっと自身の手を乗せた
趙雲がそっとその手を握る
「さ、怖がることはありません。 その足で一歩を踏み出しましょう」
心臓が、どきん どきんと脈打つ
この一歩が、はじまり―――――……
紗羅は、ごくりと息を飲み、ゆっくりと足を動かした
そのまま門をくぐる
瞬間、遅咲きの桔梗の花弁が一斉に舞った
あ……
きらきらと朝露に反射して、光る桔梗の花弁の中
趙雲が微笑んだ
そして―――――……
「おかえりなさい、紗羅殿」
「――――………」
涙が―――零れてくる
“おかえりなさい”
ああ、私はここに帰ってきたのだわ――――……
行く場所などないと思っていた
帰る場所などないと思っていた
けれど――――……
趙雲も、家人も皆 紗羅を迎えてくれる――――
“おかえり”と出迎えてくれる
私は――――………
涙が溢れて止まらない
ここに…帰って来たのだわ――――………
続
蜀へ帰る帰るといいつつ、なかなか帰らなかったですが…
やっと、帰ってきましたー
ここまで無駄に長かった…(^◇^;)
後、1話で今章は締めです
…佳葉に怒られにいきましょうか…
2015/07/14