桜散る頃-紅櫻花- 

 

 月下の舞姫と誓いの宴 1

 

 

 

紗羅は屋敷の庭先で椅子に座り、風に吹かれていた

佳葉の入れてくれたお茶の程よい香りが、紗羅の気持ちを心地よいものにしてくれる

 

この屋敷に世話になってどのくらい経っただろう…

 

ずっと長い間ここに居た様な錯覚にさせられる

でも、現実は…違う

 

傷を負った足も直った

体調も悪くない

紗羅には、もうここに居る理由が無かった

 

私は、もうここに居るべきではないのかもしれない……

 

あの男にこの場所を気付かれる前に出て行かなければならない

 

茶に口付ける

ほのかに甘い口当たりが紗羅の口の中に広がっていった

 

ここは居心地がよすぎる

これ以上ここに居たら私は……

 

 

「紗羅殿」

 

 

不意に名前を呼ばれ、声のする方を見た

柱の傍に立つ1人の青年

 

「趙雲様…」

 

その名を呼ぶだけで心が温かくなった

安心感が紗羅の中に広がっていく

思わず笑みが零れる

 

趙雲は傍までやってきて、紗羅の隣に座った

 

「庭でお花見ですか?」

 

何気ない会話

でも、その一言が愛おしかった

自然と笑みが零れる

 

「はい。桜は散ってしまいましたけど、木蓮の花が綺麗だったので」

 

そう言って庭の方を見る

そこには、紫がかった木蓮の花が庭一杯に咲き誇っていた

 

風が吹き、結い上げられた紗羅の長い艶やかな黒髪を揺らす

ほのかに薫る甘い香り

白い四肢を通した薄紫色の衣

ピンク色に染まった頬

髪を彩る薄い紫水晶の簪が風に吹かれて音を鳴らした

 

「……ええ…綺麗…ですね。本当に綺麗だ――――」

 

「え?」

 

「あっ…いえ、何でもありません」

 

聞き取れずに、紗羅は首を傾げた

趙雲が慌てて答える

その姿が可笑しくて、紗羅は更に首を傾げた

 

「あ…その、私もお茶頂いても良いですか?」

 

話を逸らそうと、趙雲は紗羅に話を振った

紗羅はにっこりと笑い

 

「はい。今、入れますね?」

 

慣れた手つきで煮水器から茶壷に湯を注ぎ、茶海にお茶を入れていく

お茶の香りが湯を注ぐにつれて、辺りに広がっていった

 

「良い香りですね…」

 

「はい。これは仏手というお茶だそうですよ」

 

紗羅は茶海から筒状の茶器にお茶を注ぎ茶杯を被せると、くるりと1回転させた

趙雲は見慣れないそのお茶の入れ方に見入っていた

 

ゆっくりと筒状の茶器を茶杯から引き抜くと、それを趙雲に差し出した

 

「?」

 

お茶の入った茶杯ではなく、筒状の茶器を渡され趙雲は首を傾げた

紗羅はにっこりと笑い

 

「それは、聞香杯と言うんですよ。香りを楽しむ為の茶器です」

 

そう言いながら、自分の聞香杯を鼻に近づけて見せる

趙雲もそれに倣って、渡された聞香杯を鼻に近づけてみた

 

柑橘系の甘い香りが鼻を刺激した

身体の隅々まで香りが行き渡るようだ

 

「どうぞ」

 

紗羅がお茶の入った茶杯を差し出す

趙雲はそれを受け取りこくりと一口 口にした

 

「聞香杯で香りを楽しみ、茶杯でお茶を楽しむ。これが正しい飲み方なんですよ」

 

「そうなんですか?知らなかったな…」

 

普段、口にするだけのお茶にこんな楽しみ方があるとは新発見も良い所だった

 

「しかも、冷めた後になるとまた香りが変わるんです!」

 

紗羅は人差し指を立てながら得意気に言った

 

言われて、趙雲は先ほどの聞香杯をもう一度鼻にしてみた

確かに、先ほどとは違う香りがする

 

「…すごいですね…」

 

感心したのか、驚きの声を上げる

 

「佳葉の受け売りですけどね。私も最初は驚きました」

 

紗羅はくすくすと笑いながら無くなった茶杯にお茶を注いだ

 

「そういえば、今日はお帰りが早いんですね?」

 

「ええ。執務が早く片付いたので」

 

「そうですか、毎日ご苦労様です」

 

紗羅がにっこりと花の様に笑う

その笑顔を見るだけで疲れも吹き飛ぶ様だった

趙雲の心の中に何か暖かいものが広がっていく

 

その時だった

 

ぐ~

 

「……………」

 

「……………」

 

沈黙が流れる

 

ぷっ…くすくすくす

 

最初に声を上げたのは紗羅だった

 

「趙雲様。お腹空いてらっしゃるの?」

 

「え…と…お恥ずかしい」

 

顔を赤らめながら趙雲は頭を掻いた

 

「では、今何かお持ちしますね?」

 

くすくすと笑いながら、紗羅はそう言って席を立った

 

「あ……」

 

趙雲は歯切れが悪そうに声を上げる

紗羅は不思議そうに首を傾げた

 

「あ~その…今夜なんですが…」

 

言いにくい事なのか、趙雲が言いよどむ

ぴんと来たのか、紗羅はん~と少し考え

 

「もしかして、どなたかいらっしゃるのですか?」

 

と、訊ねた

 

趙雲は諦めたように

 

「はい。馬超と姜維が来ると言って聞かなくて」

 

「馬超様と姜維様?」

 

趙雲の話を聞くと、今日鍛錬中に何故か紗羅の話になったらしい

それで、様子を見に来ると聞かなかった様だ

 

「では、今夜の夕餉は賑やかになりますね」

 

「賑やかというか…騒がしくなると思います」

 

いつもの事だが、馬超や姜維が来ると大騒ぎになっていた

紗羅は困る趙雲を見て、くすくすと笑いながら

 

「分かりました。その事も伝えておきますね?」

 

そう言って、紗羅は屋敷の中に入って行った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ****    ****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よ~邪魔するぜ!」

 

「お邪魔します。趙雲殿」

 

日が暮れた頃、馬超と姜維がやってきた

 

「良く来たな」

 

「お久しぶりです。馬超様。姜維様」

 

紗羅と趙雲が出迎える

馬超は2人の出迎えににやりとし、がしっと趙雲の肩に手を掛け

 

「まるで、そうやってると”新婚さん”みたいだなぁ? 趙雲」

 

「なっ………!!」

 

趙雲が顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせる

馬超はにやにやしながら趙雲の肩をぽんぽんと叩き

 

「まぁまぁ、怒るなよ。ほら、お前の好きな酒も持ってきてやったんだからよ」

 

そう言いながら、手土産の酒瓶をちらつかせる

姜維も得意気に持ってきた手土産を見せてきた

 

「お前等はまったく…」

 

趙雲の呆れた声が聞こえてくる

紗羅はくすくす笑いながら3人のやり取りを見ていた

 

「姫さんも、宴以来だな。相変わらず綺麗だな。見惚れるほどだ」

 

「え……?」

 

「馬超!」

 

突然、自分に話を振られ困惑しつつも頬が熱くなっていくのが分かった

趙雲の罵声が飛び交う

 

「あ…有難う御座います…」

 

紗羅は、頬を赤らめながら少し俯きつつはにかみながら答えた

 

「駄目だからな!」

 

趙雲が声を荒げながら抗議する

 

「何が駄目なんだ?」

 

にやにやしながら馬超が趙雲を見る

 

「何って……」

 

どもりながら趙雲はキッと馬超を睨み付けた

 

「趙雲殿、顔が赤いですよ?」

 

姜維が面白そうに介入してくる

趙雲はむっとして

 

「煩い」

と、一喝する

が、2人には効果は無い様だ

全然悪びれた様子も無くにやにやしている

 

「趙雲~?男のやきもちはみっともないぜ?もっと寛大でないとな」

 

「え……?」

 

「馬超!!」

 

きょとんとする紗羅

趙雲は慌てて馬超の言葉を遮った

馬超はにやにやしながらぽんぽんと趙雲の肩を叩いた

 

趙雲は、こほんと咳払いをし

 

「……さっさと上れ…いつまで戸口で話してるつもりだ?」

 

「おじゃましますね?紗羅殿」

 

「あ、はい」

 

姜維が何食わぬ顔で屋敷の中に入っていく

 

「こら!姜維!俺様を置いて行くな!!」

 

馬超が怒鳴りながらどかどかと屋敷の中に入って行く

奥で2人の言い争う声が聞こえる中、佳葉が部屋に案内していた

 

戸口に残された紗羅と趙雲の2人は、顔を見合わせ くすりと笑った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「かー美味い!もう1杯!」

 

だんっと馬超が空になった杯を机に置いた

 

「料理も美味しいですよ。おかわりくださーい」

 

姜維が口に料理を頬張りながら言う

 

「お前等…少しは落ち着け」

 

と、少し呆れ顔で趙雲がぼやいた

その様子がおかしくて紗羅はくすくすと笑っていた

 

「はい、馬超様。どうぞ」

 

紗羅が馬超の杯に酒を注ぐ

 

「悪いな、姫さん」

 

返事の代わりに、にっこりと微笑み返す

 

「趙雲様もどうぞ」

 

「あ、有難う御座います」

 

馬超がにやりと笑い、ぐいっと酒を飲み干すと空になった杯をくるくると回しながら

 

「こ~んな美姫にお酌をして貰えるたぁ、幸せ者だなぁ?趙雲?」

 

「え!?」

 

急に話を振られ、趙雲がどもる

 

「んー?毎日、お酌してもらってるんじゃないのか?」

 

「そっ…それは……」

 

真実なだけに否定出来ない

 

「夕餉はいつも一緒なんだってな?姫さん」

 

 

「え?は…はい」

 

「趙雲に合わせてたら遅くて大変だろう?」

 

「いえ、趙雲様と一緒に食事するのは楽しいですから」

 

紗羅がにっこりと笑って言う

 

「かー趙雲!聞いたか!?お前、本っ当に良い娘 捕まえたなぁ!こんな器量よしで優しい娘、そうそう居ないぞ?」

 

「本当ですよね~羨ましいなぁ~」

 

「……………」

 

趙雲は無言のまま顔を赤らめ俯いてしまった

 

「おい。こら」

 

馬超がぼかっと趙雲を殴る

 

「お前な、そこで黙ってどうする。『そうですね。私には勿体無いくらいですよ』ぐらい言えんのか」

 

どうなんだ?と言わんばかりに馬超が趙雲に詰め寄る

 

「……………」

 

「反応無しかよ!」

 

「…………ぞ」

 

「ん?」

 

「やらんぞ」

 

ゆら~と趙雲が顔を上げる

 

そして、ぐいっと紗羅の肩を掴むと自分の方に引き寄せた

 

「お前にはやらん!」

 

「ちょ…趙雲様…?」

 

紗羅は事態が掴めずきょとんとしてしまう

 

「紗羅殿」

 

ぐいっと紗羅を更に引き寄せ、趙雲がじっと見つめてくる

 

「…………っ」

 

その目は真剣そのもので、澄んだ瞳が紗羅を捕らえていた

自分の体温が上昇していくのが分かる

徐々に頬が赤くなっていくのが分かった

持っていた、酒瓶に力がこもる

 

「あの…趙雲様…」

 

距離を取ろうと、必死に抗ってみるがびくともしない

趙雲は更に引き寄せた

趙雲の吐息が掛かるぐらい顔が近くなって、自分の心臓の音が聞こえるんじゃないかと思うぐらいだ

 

「紗羅殿……」

 

趙雲の唇から呼ばれる自分の名が艶を帯びていて 息を飲む

紗羅は耐えられなくなってぎゅっと目を瞑った

 

「…………」

 

「…………」

 

 

その様子をじーと見ている2人が居た

 

 

ひそひそ話が始まる

 

「やるのか?」

 

「やるんじゃないですか?」

 

「そうかそうか、ついに…」

 

「ええ、その瞬間を見る時が来ましたよ」

 

2人はごくりと息を飲む

そして、その瞬間を今か今かと待ちわびていた

 

 

そっと、紗羅の頬に趙雲の手が添えられた

ぴくっと紗羅が反応する

ゆっくりと紗羅が目を開けた

 

ピンク色に染まった頬が 潤んだ瞳が…捕らえて離さなかった

 

  愛おしい……

 

ただ、愛しくて…切なくて

感情が溢れ出てくる……

 

 

  この人を愛おしい――――と

 

「紗羅殿……」

 

その名を呼ぶだけで、心が揺れた――――

ゆっくりと趙雲の顔が近づき…

 

ぐぐっと馬超と姜維が身を乗り出した

 

   でも――――モトメテハイケナイ
         

           …ワカッテイテモ――――オレハ………

 

 

 

 

  『彼女は――――かもしれません。気を許してはいけません』

 

 

不意に諸葛亮の言葉が脳裏を過ぎる

 

唇と唇が触れるか触れないかの間際でぴたっと止まった

そして、そのまま紗羅の肩に顔を埋める

どきどきと高鳴る心臓の音を必死に押さえようとしながら、紗羅はゆっくりと自分の肩にのし掛かる趙雲を見た

 

趙雲は動かず、ただじっと紗羅の肩に顔を埋めていた

 

「……すみません なんでもありません…」

 

トクン…トクン…

 

「え…あ…はい…」

 

トクン……

 

 

  趙雲様………?

 

 

でも、今私に口付け  しようと――――

 

そこまで考えて一気にボッと顔が赤くなった

 

……なに? え!? 趙雲様が、私に!?

 

そんな事ありえる筈無いのに 自分は都合の良い夢でも見ているのだろうか…

考えても答えは見つからなかった

頭が混乱する

 

「……本当に…すみません…」

 

趙雲が顔を上げる

少し苦笑いを浮かべながら

 

「少し酒に酔っただけですから…申し訳ありません」

 

「は…はい…」

 

そう言われてしまっては、紗羅は何も言えなくなってしまった

だが、火照りを帯びた身体はそうそう収まる筈も無く

心臓が未だにどきどきいっていた

 

 

 

 

「――――っの、馬鹿野郎!!」

 

 

 

 

ぱかーん と景気の良い音が部屋中に響き渡る

殴られた本人はぽかんとしたまま、頭を抑え殴った相手を見上げていた

そこには、殴った本人 馬超が仁王立ちしていた

 

「お前なぁ!あそこまでいったならぶちゅっとやらんか!!ぶちゅっと!」

 

「………ちょっと頭冷やしてきます…」

 

そう言って、部屋を出ようとする

 

「あ、こら!逃げるな!趙雲!!」

 

馬超が慌てて追いかけていく

姜維がふぅ…とため息を付いて、紗羅の傍にやってきた

 

「大丈夫ですか?紗羅殿?」

 

「え!? あ、は、はい」

 

いきなり話を振られどもってしまう

紗羅は赤い顔を知られまいとぱっと頬を両の手で押さえた

 

「……………」

 

紗羅は趙雲と馬超が去っていた扉の方を見ていた

 

 

 趙雲様――――――――………

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

聞香杯は本当は三国時代にはありませんでした

できたのは20年ぐらい前らしい…ま、夢なんで大目に見て下さい

 

2008/10/18