◆ 月と桜の理 6
「紗羅様。最近は調子が宜しいようですね?」
「え?」
佳葉がお茶を茶杯に入れながら言った
天気の良い昼下がり
気持ちの良い風が窓から入ってきていた
庭の桜の樹木も一層花を色づかせている
「顔色が前よりずっと良いですよ」
「……そう…かな?」
紗羅は少し照れたように答えた
佳葉は「はい」と嬉しそうに言いながらお茶を差し出す
紗羅は読んでいた書物を置いて、そのお茶を受け取った
武夷岩茶の良い香りが部屋中に漂う
紗羅はくいっとその岩茶を口にした
温度が変ると香りも甘くなり程よい甘さが口の中に漂う
「このお屋敷はお茶の種類が豊富よね」
紗羅は不思議そうに訪ねた
趙雲がお茶に詳しいという感じはしないが、毎日佳葉が入れてくれるお茶は違うものだった
蜜蘭香に大紅袍や観音王・武夷翠玉に武夷奇丹 ここに来てから青茶だけでも相当な数を飲んだ気がする
佳葉はふふっと笑いながら
「お茶は私の趣味なんですよ」
そう言いながら、2杯目のお茶を茶杯に注いだ
「天気も良いですし、足の調子が良ければ庭でお茶すると気持ち良いですよ」
「そうね…読書にも気持ち良さそう」
「はい」
劉備から届いた見舞いの品はそれは珍しい書物ばかりだった
特に、物語は読んだ事が無かった事もあり、紗羅は毎日の様に読んでいた
勿論、詩集も何度も読み返したほどだ
サァ…と風が吹き、紗羅の髪を靡かせる
佳葉とは毎日一緒に居ることが多く、打ち解けられていた
しかし、趙雲とはあの日以来どう接してよいのか分からなかった
毎晩、執務が終わり屋敷に帰った後様子を見に顔を出してくれる
それは嬉しい事ではあるが…それとは反面、苦しくもあった
正直、もう何を話して良いのか分からないのだ
どう答えて良いのか…分からないのだ…
それを感じ取っているのか、趙雲の方も何を話して良いのか分からず、気まずい雰囲気になる
”これ以上望んではいけない”
分かっているのに、押さえが利かなくなってしまう
ずっと憧れてきた趙雲と会うだけで心が揺れた 話すだけで心が躍った
その反面、”月夜叉”として今までの自分がしてきた事への罪悪感が心を支配する
分かっていてやってきたことだ それは理解している
鬼神と呼ばれ、残虐非道なこともやった 城一つを滅ぼした事もある 一族皆殺しにしたこともある
これは戦だ そう自分に言い聞かせてやってきた事だ
それでも、そうしなければ誰も助けられなかった…あの男から
でも、例えどんな理由があろうと、自分のやってきた事に変りは無いのだ
私の手は…心は…穢れている………
さらりと紗羅の髪が横に流れ
もし、”月夜叉”だと知られたら…?
紗羅は首を横に振った
どんな顔をして話せというの
どんな思いで話せというの
しかも、あんな事言って…私は………
持っていた茶杯に力がこもる
はぁ…とため息が漏れた
嫌な女だって思われたわよね… 面倒な女だって……
自己嫌悪に落ち込んでしまう
でも――――
『おまえはワシの物だ・・・他の誰にも心許す事も、その名を刻ませる事も許さん・・・・よいな?』
後宮で…私に話しかけた者、名を呼んだ者…皆殺された
私の目の前で…私が見ている目の前で…肉の塊と化していくのを黙って見ているしか無かった
その内、誰も”莉維”とは呼ばなくなった
あの男と元譲様以外は…皆、”蒼の姫”と――――
趙雲様が殺されるよりはずっとまし――――………
私がここに居る事が知られれば、必ずあの男は攻めて来る
きっと蜀を許さない 趙雲様を許さない
優しかった劉備や趙雲の顔が浮かぶ
私のせいでこの国に…趙雲様に迷惑は掛けたくないっ
その前に、ここを出なければ――――
◆ ◆
「……うわっ!」
ガキィン
弾かれた槍が空中をくるくると回り、ドンっと激しい音と共に趙雲の後に突き刺さる
「おい!趙雲!やる気あるのか!?」
馬超の罵声が鍛錬場に響き渡る
趙雲はそんな馬超の話を聞いてなさそうに、はぁ…とため息を付いた
「おい!」
はぁ…
「こら!」
はぁ…
「人の話を聞けぇ!」
叫ぶと同時に、馬超は趙雲の首にがしっと腕を回した
「……………」
じーと無言のまま趙雲を見る
趙雲は、ぼーとしたまま遠くを眺めていた
「馬超……」
趙雲がぽつりと消えそうなぐらいの声で呟く
「なんだ?」
「私は嫌われているのだろうか…?」
「は?」
突然、意味不明の疑問を投げかけられ素っ頓狂な声を上げてしまう
少し考え、馬超はおもむろに趙雲に尋ねた
「……姫さんか?」
「………………」
趙雲は無言のまま俯いてしまう
ぷち
何かが切れる音が聞こえた
「だ――――うっとうしい!聞いてみれば良いだろう!?」
「……聞けるわけないだろう」
「そう言うお前はどうなんだよ」
「私は――――……」
言いかけて口ごもる
不意に泣いていて涙を拭いた時の事を思い出してしまう
ぱっと趙雲の頬が一瞬赤く染まった
「良く分かった」
馬超はふっ…と笑い、ぽんぽんと趙雲の肩を叩く
「私はまだ何も言ってないが?」
「いや、言わなくても分かったから良い」
「?」
意味が分からず、趙雲は首を傾げた
馬超は自分の槍を肩にとんとんっとさせながら
「取り合えず、俺に会わせろ。な?」
「馬超!?」
「俺に任せとけって」
そう言って、にやりと笑い、ぽんぽんともう一度肩を叩いた
趙雲は訝しげに馬超を見ながら
「……嫌な予感がするのだが…」
「大丈夫だって!安心して、この馬孟起様に任せとけって!」
趙雲の心配を他所に馬超は上機嫌で答えた
行く気満々だ
趙雲は、はぁ…と4度目のため息を付いた
紗羅は目を点にしながらが、目の前の光景を眺めていた
彼女の目の前には、趙雲と派手な男と素朴そうな青年の3人が居た
「……………」
どうして良いか分からず、無言になってしまう
「どうして姜維まで居るんだ!?」
「まぁ、良いじゃないか」
「そうですよ」
男3人が紗羅の前でひそひそ話をしている
ますます持って訳が分からない
派手な男…馬超はじーと紗羅を眺める
馬超の感想から言っても、稀に見ない美姫だと思った
整った顔立ちに、すらっと長く白い四肢、艶のある漆黒の長い髪が彼女の白さを一層際立たせていた
これは…予想以上だな
馬超はまじまじと彼女を見ながら思った
姜維も興味深々といった感じで彼女を見ている
「あの………」
視線に耐えられなくなった紗羅が口を開いた
「私は、姜伯約と申します」
「俺は馬孟起だ」
2人の青年が自己紹介をする
だが、紗羅は馬超の名を聞いた途端ギクッとした
馬? まさか……
あの男の命令でとある西方の一族を壊滅させた時の事を思い出す
布団の下にあった手に力が篭る
紗羅はごくっと息を飲み
「……馬超様のご出身は西涼…ですか?」
「おう。良く知ってるな。扶風郡茂陵県の出だ」
「そう……ですか」
手が震えた
こんな近くに…………
必死で笑顔を取り繕おうとするが上手くいかない
冷や汗が流れ落ちる
劉備様に続いて、今度は馬超様まで………
試されている様にしか思えなかった
そうじゃないと信じたい 月夜叉とばれた訳ではない そう思いたかった
でも、そうとしか思えなかった
そんな紗羅とは裏腹に、馬超が姜維に何か耳打ちしているかと思うと、趙雲が姜維によって部屋から追い出されていく
部屋に馬超と紗羅の2人だけになる
また……!?
もう、紗羅はどうして良いのか分からなかった
私…やっぱり趙雲様に疑われてるんだ………
趙雲が疑惑を確信に変えたとしか思えなった
涙が出そうになる…
紗羅はじわっと溢れてきそうな涙を必死で堪えた
「単刀直入に聞く」
馬超の声が遠くに聞こえる……
紗羅はぎゅっと手を握り締めた
『俺の一族を殺したのはお前か?』
馬超が聞いてきそうな台詞が脳裏を過ぎる
あぁ…………
紗羅はぎゅっと目を閉じた
「趙雲の事どう思う?」
………………
……………………
…………………………
「……………え?」
一瞬思考が止まる
今…何て………??
「……………」
趙雲様の事をどう思っているか…?
どうって…………どう……
「え!?」
一気に顔の熱が上がり頬が熱くなる
その瞬間を馬超は見逃さなかった
にやりと笑い、「そうかそうか~」と何か納得したかの様に頷く
「馬超様っ……あのっ!!」
「そうかぁ~こんな美人をねぇ…趙雲もやるな」
紗羅はあせって抗議しようとするが、馬超はにやにや笑いながら一向に聞く様子は無い
「ちょ…趙雲様には内緒にして下さい!!」
紗羅は精一杯訴えた
ぴたっと馬超が止まる
「何で?」
「何でって……だって……っ!」
もう、紗羅には別の意味でどうして良いのか分からなかった
だって……もし、知られたら…知られたら…
かぁーっと頬が赤く染まる
じーと馬超が見ている
うっ………
紗羅は俯いだまま口をぎゅっと噤む
耳まで赤くなるのが自分で分かる
あぁ………
恥ずかしさのあまり、ますます俯いてしまう
馬超はくくっと笑い
「しょーがねぇなぁ~」
そう言って、ぽんぽんと紗羅の頭を撫でた
「馬超様…?」
「安心しな。趙雲には言わねぇよ。だから、そんな泣きそうな顔すんな。ばれたら趙雲にどつかれる」
にかっと笑いそう答える
「ただなー」そう言いながら腕を組み、馬超はう~んと考え込んだ
「?」
馬超が何をしたいのか分からず、紗羅は首を傾げる
「趙雲にはもう少し優しく接してやれよ。あいつ嫌われてると思ってるぞ?」
「嫌ってなんて………っ!」
「あ~分かってるって」
必死に抗議しようとする紗羅を制し、馬超は手をぱたぱたと、ばたつかせた
「ま、もう少しで良いから、心開いてやれ。 趙雲の為にも な?」
「は…はい……」
趙雲様の為?
意味が理解出来ず曖昧に返事をする
ふと、扉の向こうで趙雲の抗議する声が聞こえてくる
「向こうも、そろそろ限界みたいだな」
馬超はやれやれっといった感じで扉の方に行く
「姜維!もう良いぞ」
その声を合図に扉がばんっと勢いよく開いた
「馬超!」
と、同時に趙雲の罵声が飛び交う
姜維が後の方でひいひい言っていた
「もう、趙雲殿 容赦ないんですから~」
「どういうつもりだ!馬超!!」
「まぁ、落ち着けって。な?」
3人の男の声が部屋中を飛び交う
紗羅は訳が分からずきょとんっとしていた
「じゃぁな、姫さん」
馬超が手を振りながら趙雲と姜維を扉の外に押しやる
「馬ちょ…っ!」
バタン…
扉が閉まる
「………………」
紗羅は呆然とその様子を眺めていた
まだ、扉の向こうで3人の声が聞こえてくる
ぷっ…くすくすくす
不意に笑いがこみ上げてきた
「あはは………」
3人のやり取りが可笑しくて笑いが止まらない
こんな風に笑ったのは久しぶりかもしれない
清々しくて気持ちの良いものだと改めて実感した
**** ****
「馬超!!」
趙雲の声が廊下中に響き渡った
馬超はまぁまぁと言いながら手で制する
だが、趙雲の怒りは収まらない
いきなり、姜維によって(馬超の指示だが)部屋から追い出されたのだ
紗羅にもしもの事があったらどうしてくれるんだ!?と言わんばかりの勢いだ
馬超はにやりと笑い
「趙雲。上手くやれよ?」
そう言って、ぽんっと肩を叩く
「はぁ?」
趙雲は訳が分からず訝しげに馬超を見た
馬超はふっと笑って
「後はお前次第だ」
そう言い残し、そのまま姜維を連れて去って行く
趙雲は馬超が言わんとする意味が分からず、首を傾げた
「すみません。馬超が…何か失礼な事しませんでしたか?」
戻ってくるなり趙雲は頭を下げた
紗羅は曖昧に笑い「大丈夫です」と答える
まさか、馬超との会話を言う訳にもいかず、かといって馬超の言う様に”心を開く”と言ってもどうしたら良いものか分からず黙り込んでしまう
趙雲も馬超の”お前次第”の意味が分からず黙り込んでしまった
「………………」
お互い、どうしたら良いものか分からず沈黙が続く
気まずい………
沈黙に耐えかねた趙雲が口を開いた
だが、結局気の利いたことは言えず、また沈黙が続く
気まずい雰囲気が流れた
「あの………」
紗羅は思い切って声を掛けた
趙雲がそれに「はい」と反応する
「劉備様に、”書物…ありがとうございました”とお伝え下さい」
そう言うのが精一杯だった
「分かりました」
趙雲は笑い、そう答えた
「殿から贈られた書物は…詩集や物語ですか?」
「あ、はい」
「……すみません。うちには兵法書しか無かったので…」
申し訳なさそうに趙雲が言う
紗羅は慌てて手を振り
「いえ、兵法書も楽しいですから。勉強になりますし……」
「そうですか?」
「はい。劉備様から頂いた書物とは違った楽しみがあります」
「なら良かったですが…」
趙雲はう~んと考え
「詩集や物語は楽しいですか?」
「…はい。詩集も読んだ事無い物ばかりですし、物語は初めてなので新鮮で……」
「そうですか。それは良かった。なら、今度私からも何か物語をお贈りしますね?」
「…宜しいのですか?」
紗羅が趙雲の方を見る
趙雲はにっこりと笑い
「はい。喜んで頂けたら嬉しいのですが…」
と、少し照れたように答えた
紗羅は一度目を瞑り
「ありがとうございます。 大切に読ませて頂きます」
そう言って、ゆっくりと目を開けた
予告通り、馬超が出張りまくりです
馬超とは仲良しさん?
趙雲とはちょっと進展したかなぁ…?
2008/04/25