◆ 月と桜の理 5
木々がざわめく
庭の桜の樹がさわさわと鳴き、その花びらを散らしていた
趙雲は窓辺に座り、外を眺めていた
風が入ってきて趙雲の髪を揺らした
泣いていた紗羅の顔を思い出す
『何故、その剣でお斬りにならないのですか!?』
はぁ…
ため息が漏れる
あの時、彼女に見せようと思った剣…青釭の剣と対をなす倚天の剣
趙雲は、持ち帰って寝台の傍に置いていた倚天の剣に目をやる
「……………」
趙雲は自分の腰に差していた剣をぐっと掴んだ
あの時…
彼女が貸し与えてくれた剣…青釭の剣
『一緒には行けません。………有難う』
そう言って自分を見送ったあの姿…
白に蒼と金糸の刺繍の入った戦袍を深く纏って月毛色の毛並みの白馬に跨った彼女の姿
風に吹かれて、長い漆黒の髪が揺れた
頬に流れる一滴の涙…
どうして彼女は――――……
『蜀の君主である劉備様の命を狙う者ならどうしますか!?』
そう言って、大粒の涙を流した紗羅――――
「……泣いた顔ばかりだな…」
はは…と笑いながらそう呟く
趙雲は前髪をかき上げた手に力を込めた
月を背に横たわる屍の中1人佇む様に立って泣いていた紗羅
別れ際に一滴の涙を零した姿
倒れていた彼女を見つけた時
自分を殺してくれと泣き叫ぶ姿…
思い出すのは泣いた姿ばかり――――………
初めて彼女を見た時からずっと――――
本当は笑って欲しいのに……
握っていた手に力が篭る
私は……無力だ……
桜の花びらが、ひらひらと部屋に入ってくる
――――趙雲はゆっくりと目を閉じた
**** ****
「…んっ………」
紗羅はゆっくりと目を覚ました
朝日が窓から差し込んでいる
私…
昨日、あれから泣きつかれて寝てしまったらしい
鏡で自分の顔を見た
「…ひどい顔…」
目は腫れて赤く染まっている
とても見れた顔では無かった
それもその筈、昨夜あれから泣き続けて 涙が枯れるかと思うぐらい泣いたのだ
泣きすぎて 時間が経った今でも目も喉も痛かった
それでも…
結局、私は生きているのね……
そう思った途端、きゅるる とお腹が音を鳴らす
恥ずかしさのあまり、ぱっと頬が赤く染まる
慌ててお腹を押さえて、辺りを見回した
幸い、自分1人しか居なかった事に感謝する
こんな境遇になっても己の身体は生きようとしている
どんな境遇になろうと、どんな心情になろうと”生”にしがみ付く浅ましさ
ぐっと紗羅は唇を噛み締めた
不意に扉を叩く音が聞こえる
「はい」と返事をすると、1人の侍女が入ってきた
あの日以来、ずっと紗羅の身の回りの世話をしてくれている侍女・佳葉だ
「おはようございます、紗羅様」
佳葉はにっこりと笑いながら、持ってきた水差しを寝台の横に置いた
ゆっくりと水を注ぎ、紗羅に手渡す
紗羅はその水を受け取り、一気に飲み干した
痛かった喉に、潤いが戻ってくる
「紗羅様。湯殿の用意が出来てますけど如何致します?」
「湯殿?」
その申し出は有り難かった
顔を洗ったぐらいでは取れそうにない 顔の腫れも湯殿に浸かれば引くだろう
でも、朝から湯殿の準備とは、蜀ではそれが当たり前なのだろうか?
不思議に思い佳葉を見ると、佳葉はくすりと笑い
「内緒ですよ? 実は黙っておく様に言われたんですけど、趙雲様のご指示なんです」
「え?」
「きっと、湯殿を使いたいだろうから…と」
その瞬間、ぱっと赤くなる
泣いていたのがばれたのだろうか!?
まさか…ね…
「着替えもありますから。上がったら朝餉にしましょう」
そう言うと佳葉はいそいそと用意してきた着替えを差し出した
紗羅は素直にそれを受け取り、湯殿へと案内してもらう事にした
ポチャ ――――……ン
紗羅は薄絹を着て湯に浸かった
湯を手ですくい、顔に当てる
数日振りの湯は気持ちの良いものだった
身体の芯まで温まる
ぽぅ…っと白い肌が桜色に変わる
とても戦場を駆け抜けていたとは思えないような白い四肢は、湯に浸かり桜色に染まる事で一層彼女の美しさを際立たせた
手を上手に使い長い漆黒の髪をすくう
サラ…と手の間をすり抜けて長い髪が零れ落ちていく
艶を取り戻した髪は一層美しく輝いた
「………………」
ふぅ…とため息を付き、髪を横に垂らす
この身体も、この髪も顔もすべてあの男の為に手入れされてきたもの…
魏の後宮の奥深くで毎日女官達によって手入れされてきた
全てはあの男の為に……
着る衣装も、髪を飾る装飾も、唇を彩る紅も
用意される全てがあの男の為の物だった
紗羅はぎゅっと唇を噛み締めた
脳裏にあの日の夜の事が思い出される
今まで、一度として手は出して来なかったあの男が”初めて”自分に触れてきたあの晩の事を――――
腕に触れる手の感触
首に残るあの男の吐息
考えるだけで背筋がゾッとした
震える身体を両の手で掴む
初めて”怖い”と思った
あの男の本性を今まで何度と無く見てきたにも関わらず”怖い”と思った
あの男の言葉、仕草、存在自体が”怖い”と思った
あの男の残忍さ、冷酷さ、無常さは嫌というほど知っていたのに――――
あの日、あの晩 初めて自分自身に降りかかる火の粉を”怖い”と………
『莉維!! こっちだ ここから行け!!』
頭に残るいつも危ない時 助けてくれた人の 低い声…
もし、あの時 元譲様が助けてくれなかったら――――………
ポチャン…
髪から雫が滴り落ちる
私は…どうしたら…………
「元譲様………」
◆ ◆
「趙雲」
不意に呼び止められて、趙雲は声のした方を見た
そこには、趙雲の主 劉備の姿があった
「殿」
趙雲は拳と掌を合わせ、一礼する
劉備はにこにこと笑いながら趙雲に近づいてきた
「殿、1人で出歩かれては危のう御座います」
「まぁ、堅苦しい事は言うな趙雲」
劉備は趙雲の忠告もさほど気にした様子も無く ははっと笑いながら答えた
「所で、趙雲」と言いながらポンと肩に手を乗せ
「彼女が目覚めたと聞いたが、どんな様子だ?」
と興味深々といった感じで聞いてくる
彼女と趙雲の反応 どっちに興味あるのか? といった感じで劉備はうきうきしていた
明らかに、面白がっている
「……………」
それを感じ取りつつも、君主の質問に答えない訳にもいかず、趙雲は重い口を開けた
「熱は引いて、今は我が屋敷で静養中でございます」
そうかそうか と頷き、劉備はにんまりと笑い
「実はな……」
「は!?」
「………………」
趙雲は無言のまま主の後ろを付いて歩いた
劉備はうきうき顔でどんどん歩いていく
「この部屋か?」
「…はい」
劉備は一つの扉の前で一度咳払いをして、扉を叩いた
紗羅は寝台に寄りかかり、書物を読んでいた
足がまだ治らないので動く事は出来ない
そんな彼女に読書はどうかと佳葉が進めてくれたのだ
だが、趙雲の屋敷
物語や詩集などはなく兵法書ばかりだったが、彼女にとっては読み慣れた書物だった
戦場に出る限り、兵法も学ばなくては成らない
孫子・吾子・尉繚子・六韜 武経七書と呼ばれるものは全て熟読したし、頭に叩き込まれた
特に、孫子はあの男が豪く気に入っていたので暗記するぐらい読まされたものだ
パラリ…と書物をめくる
読んでいる時は落ち着けた
元々書を読む事は嫌いでは無い
むしろ、歌舞と武術を習う事以外する事が無かった後宮の暮らしの中では書を読む事は楽しみの一つでもあった
勿論、歌舞を習うのは好きだ 武術も嫌いではない
特に歌舞は 亡き母が大陸中でも有名な舞姫だった彼女にとって、生活の一部だった
そう、あの男に保護される前から…
はぁ…
紗羅はため息を漏らした
パラリ…と書物をめくる
不意に扉を叩く音が聞こえた
佳葉だろうか?
趙雲が訪ねて来るにはまだ早い時間だった
特に、不思議に思わず「はい」と返事をする
「失礼する」
聞いた事の無い声が聞こえ一瞬身構えるが、入ってきた人物を見て紗羅は絶句した
入ってきたのは、紛れも無くこの蜀の君主・劉玄徳だった
後に趙雲も付き従っている
戦場で一度だけ見た事ある、澄んだ気を持つ 大徳を頂く御仁
紗羅は慌てて挨拶しようとしたが体制を崩し、読んでいた書物が落ちる
「…………っ」
焦って書物を取ろうとした瞬間、痛めた右足に痛みが走る
あまりの痛さに、紗羅は足を押さえた
「あぁ、無理せずとも良い」
劉備は拾おうとした趙雲を手で制し、落ちた書物を拾う
「六韜か…私も読んだものだ」
そう言いながら、拾った書物を紗羅に渡した
「…ありがとうございます」
「書物は好きか?」
「あ、…はい」
「そうか」
劉備は笑い、うんうんと頷きながら寝台の横の椅子に座った
「紗羅殿と申したか? 突然訪ねて申し訳ない。 私は劉玄徳と申す」
そう言って一礼する
「あ……この様な体制からで申し訳ございません。 綝 紗羅と申します。」
紗羅も慌てて一礼した
劉備が趙雲に何かを言っている
すると、趙雲は一礼して部屋を出て行ってしまった
う…そ………!?
ドッと汗が流れ落ちてくる
昨日の今日で劉備と2人きりにする趙雲が信じられなかった
昨夜、「間者だったらどうするのか!?」と言ったばかりでこの状況だ
紗羅は息を飲んだ
もし、本当に間者だったらこの絶好の機会を逃すものは居ないだろう
私…試されてるの………?
チクン…
胸が…痛む……
もうしそうだとしたら?
ワタシハ…ウタガワレテイル
ふっ…自分が滑稽で笑いがこぼれてくる
自業自得なのに…何をショックを受けているんだか……
そう、自業自得
疑われても仕方ない
私は 『月夜叉』だから――――――――
分かっているのに…分かっていた筈なのに…どうして…どうしてこんなに辛いんだろう…
「紗羅殿?」
心配そうに劉備が覗き込んでくる
紗羅は滲んだ瞳を慌てて拭き、「何でもありません」と答えた
「心配せずとも、趙雲はすぐ戻ってくるからな?」
「え?」
趙雲が居なくなった事に涙を零したと思われたのか、劉備はにっこりと笑いそう答えた
程なくして趙雲が沢山の書物を持って帰ってきた
続けて佳葉が入って来て、劉備にお茶を出して去っていく
劉備は、佳葉に入れてもらったお茶を口にしながら、趙雲が持ってきた書物に目を通した
「兵法書ばかりだな…物語や詩集は無いのか?」
「無茶言わないで下さい」
紗羅は劉備が何をしたいのか分からず、きょとん としてしまう
劉備はやれやれといった顔をして
「物語や詩集は好きか?」
「え…あ、はい…詩は嗜んでいましたから…物語は…」
詩に関しては教養の一環としてあの男の為に勉強させられたからそれなりに嗜んでいたが、物語に関してはからっきしだった
手にした事すらない
「趙雲はこういう事には疎いからな。今度私から詩集や物語を贈ろう」
「え!? ですが…」
「見舞いの品だ」
「………………」
こういう時どうして良いか分からず、趙雲の方を見る
視線に気付いた趙雲はにっこりと笑い頷いた
「あ…ありがとうございます」
紗羅はそう言いながらぺこりと頭を下げた
劉備は満足したかの様にうんうんと頷き
「あまり長居しては悪いな。そろそろお暇しよう」
そう言って立ち上がり、部屋を後にする
送るのだろう 趙雲もそれに続いた
パタン…
扉が閉まった瞬間、どっと力が抜けた
部屋に1人になり一気に動悸が早くなる
「……………っ」
落ち着かせようとするが、中々落ち着かない
あれが、蜀の劉備様……
以前は遠くから垣間見ただけだったが、今回は違う
面と向かって話したのだ
緊張しない筈が無い
以前見た時も思ったがやはり、あの男とは比べ物にならないくらい澄んだ気を纏ったお方だ
趙雲様といい…蜀の武人は皆ああなのかしら…
魏に居た時は考えられない事だった
あそこは澱んでいる
醜い、勢力争い 誰も彼もが己が一番と誇示する
あそこで味方は夏侯惇だけだった
あの方だけが違った…
もし、あの男ではなく劉備様に拾われていたら…私は違っていたのだろうか…
それは、考えても詮無き事だった
ふと外を見る
傾きかけた日が桜の樹を紅く染め上げていた
桜…
『………母様………』
母が逝った日も桜の樹が咲いていた
桜の下舞っている母を思い出す――――
母・静嵐が最後に舞ったのも桜の下だった…
桜は…いつも私を見ている………
そっと窓から届く桜の樹に触れる
はらり…と花びらが散っていった
『あなたは・・・生きなさい』
母の言葉が脳裏を過ぎる
”月夜叉”としての業を背負って生きていけと…いうのですか?
つぅ――… と涙が零れ落ちる
今、自分は蜀にいる
あの劉備様の治める国に…
趙雲様の居る国に――――――――
戦場で…後宮で…
遠くから見れるだけで良いと思っていた 話を聞くだけで良いと思っていた
夏侯惇が持ってきてくれる趙雲の話題を聞くだけで それだけで心が躍った
逢うなんて… 逢って話をするなんて…
『紗羅殿』
趙雲が名前を呼んでくれた時の事を思い出す
私の…本当の名…
この国の人達は、私の”本当の名”を呼んでくれる
今までの自分には考えられない事だった
あの国の居た時には考えられない あり得ない事だった
”紗羅”
趙雲の声が心に染み渡る
私は…これ以上望んではいけない………
あの方が”本当の名”を呼んでくれた それで十分
紗羅は外を眺めた
桜の花が散っていた――――
**** ****
「趙雲」
劉備は宮殿まで送ってくれた趙雲に向き直った
趙雲は不思議に思い首をかしげる
劉備は笑いながら
「良い娘ではないか。大切にしてやらねばな」
そう言いながら、ぽんぽんと肩を叩かれる
「はぁ……」
訳が分からず、曖昧な返事をする趙雲にやれやれといった感じでぽん ともう一度肩を叩いた
そして、そのまま宮殿内に入っていく
残された趙雲は手を合わせて一礼し、その場を後にした
屋敷に戻った趙雲はすぐさま紗羅の部屋にやってきた
「すみません。 殿がどうしてもと言うので…」
「いえ…大丈夫です。 その……少し…驚きましたが」
まさか、君主自ら一介の しかも、敵国の人間に会いに来るなんて前代未聞である
それが、いくら女人だとしても だ
無用心すぎる
「………………」
気まずい沈黙が流れた
昨日の今日だ あんな事を言った手前まともに趙雲の方を見ることが出来なかった
さっきは劉備が居たから大丈夫だったが…2人きりとなると話が別だ
趙雲の方もそれが分かっているらしく、どうしたものかと考えあぐねている
「……劉備様は良い方ですね…」
紗羅はぽつりと呟いた
そして、外を見る
桜がこっちを見ている――――
これ以上は望んではいけない…望んでは――――いけない……
趙雲とは気まずいままで終了(;>艸<;)
この2人…打ち解けるのかねぇ…
劉備様とはいい感じ?
次回は馬超が出張ります(笑)
2008/04/24