◆ 小竜景光 「言の葉」
(「華ノ嘔戀 外界ノ章 藍姫譚」より)
心地の良い風が、頬を撫でた。寒かった冬から、暖かな春へと変わっていくのを感じる。花が徐々に咲き始め、その香りが風に乗って飛んでくるのを全身で受け止めた。
ぽかぽか陽気で、ついうとうとしてしまう自分に、思わず笑いそうになる。それに、何故だろうか――髪を撫でられる手がとても優しくて、このままでいたいとさえ、思ってしまった。それが余計に眠りの淵へと誘っていく。
「ん……」
ゆっくりとした動作で髪を撫でられて、思わず声が洩れた。それでも、何故かうとうとしてしまって、瞼を開ける事が出来ない。すると、また優しい手が髪を撫でてくる。それが酷く心地よい。
誰の手だろうか……。そんな事を考えつつも、やはりうとうとしてしまう。それに、なんだかとても気持ちがいい。ふわふわしているというか、温かいというか、何と言い現わせれば良いのか分からないけれど、とても安心する――。
まるで、小竜様に抱き締められているかの様な、そんな不思議な安心感と、心地良さを……。
「……」
小竜様に、抱き締められて……?
「え……?」
そこまで考えて、思わず審神者がぱちっと目を開けたその時だった。
「あ、起きたんだ?」
「え……」
頭上から聞こえてくる、その甘い声に、一瞬審神者が驚いたかの様にその瞳を瞬かせた後、慌てて声のした方を見た。瞬間、視界に金色の髪と、透き通るような紫水晶の瞳が入ってくる。それは……。
「こ、小竜、さ、ま……?」
審神者は状況が掴めていないのか、半分ぽかんとしたまま視界に入る小竜景光を見た。すると、小竜がにっこりと微笑みながら、
「うん、おはよう」
「え……あ、お、おはよう、ございま、す……」
と、なんとか返事をするが、未だどういう状況なのか、審神者は理解出来ていなかった。だが、小竜は気にした様子もなく、
審神者の髪を撫でていた。
「あの……」
これは、どういう状態、なの……? 何故、小竜が審神者の髪を撫でているのか。いや、そもそも何故ここに小竜がいるのか……。
と、そこまで考えて、頭に当たるふわふわした柔らかい何かに、審神者は首を傾げた。てっきり枕か座布団かと思って、それに手を添えてみる。すると、小竜がくすっと笑って、
「何? キミ、結構大胆な事するね」
「え」
はっとして自分の手を添えた〝それ〟を見てみる。そこにあったのは……。
え……、ええ……っ!? 瞬間、がばっと審神者が慌てて起き上がった。
「な、なな、なん……っ」
知らず、顔がどんどん朱に染まっていく。待って。待って待って……っ、わ、私……っ。小竜様の膝に……っ!! まさかの状況に、審神者が慌てて真っ赤に染まる両頬を抑えた。恥ずかしさの余り、顔が上げられない。
どうして……。何がどうなって、私は小竜様の膝の上で寝てしまっていたの……っ!? そもそも、ここに最初いた時は、小竜の姿はなかった筈だ。それなのに、目を覚ましたら小竜に膝枕されていたなどと、誰が思うだろうか。
そんな、まかさの状況に審神者が赤くなったり、青くなったりしていると……小竜は面白いものでも見ているかの様に、くすっとその口元に笑みを浮かべて、
「何、百面相してるのさ。別に変なことはしてないよ?」
そう言って、くつくつと笑いだした。すると、審神者は両頬を抑えたまま、かぁ……っと、顔を更に赤く染めて、
「べ、別にそういう事ではなく……その……」
何と言っていいのか。どう言うべきなのか。審神者がどうしていいのか分からず、口籠もる。それから、少しだけ小竜の方に視線を送りながら、
「その、ど、どうしてここに小竜様、が……」
そう尋ねると、小竜には伝わったのか、「ああ」と声を洩らすと、にっこりと微笑んだ。それから、すっと審神者の髪をひと掬いすると、そのままその髪に優しく口付け、
「キミが、ここで寝こけてるって聞いたから、様子を見に来たんだ」
「え……」
って、どなたに!? と、思ったが、今重要なのはそこではない。何故、小竜が膝枕をしていたか。そこが問題なのだが……。何故かこう、誤魔化されている様な気がして、これ以上深堀すると、自ら墓穴を掘りそうで聞けなかった。かといって、これ以上ここにいると、気恥ずかし過ぎて死にそうだった。
「あ、あの……っ。その、お手数お掛けして、申し訳ございません……っ。えっと、その……し、失礼しますっ!」
それだけ言うと、審神者は慌てて立ち上がると、その場から逃げたのだった。
**** ****
―――数日後
何故か、審神者はあの日から小竜の顔がまともに見れずにいた。正確には、恥ずかしさの余り、小竜がいると避けていた。
ふとした瞬間や、気が付いた時、知らず小竜を見ては、あの紫水晶の瞳と目が合うと、視線を逸らしてしまった。ほのかに、頬が熱くなる。彼を見ただけで、あの日の事が頭に過ぎり、恥かしさで、頭が一杯になった。
だから、極力小竜を見ない様に、逢わない様に意識していた。それでも――気が付けば、目で追ってしまう。自分でもどうしてか分からなかった。でも、そうして目が合えば逸らす。傍から見たら不自然で、可笑しかったに違いない。きっと、小竜も変に思っているかもしれない。そう思うと、何だか申し訳ない気もしてきた。
そんな風に思い始めた時だった。廊下でばったりと小竜に逢ってしまった。他には誰もその場にはおらず、小竜と審神者、二人だけだった。
「あ……」
知らず、目を逸らしてしまう。だが、逸らした瞬間、いけない……っ! と思った。けれど一度逸らしてしまった後で、何をどう繕えばいいのか分からなかった。
「主?」
小竜の優しい声が、頭に響いてくる。でも、審神者にはそれが余計に恥かしさを加速させた。
「あ、えっと、その……」
しどろもどろになりながら言の葉を紡ごうとするが、上手く紡げない。そうしている内に、顔がどんどん紅潮していくのが自分でも分かった。何をされた訳でも無い。ただ声を掛けられただけなのに、それなのに鼓動が早くなり、全身が熱くなってくる。
「ある――」
小竜が、心配そうにこちらへ手を伸ばしてきた。きっと、前だったらその手を受け入れていた。けれど、今は……。
気が付いた時には、その手から逃れる様に、避けてしまった。
「あ……」
またやってしまった。そう思うも、もう後には引けなかった。小竜の顔がどうなっているのか、まともに見る勇気すら、今の審神者は持ち合わせてなかった。これ以上彼の傍にいたら、きっと気がおかしくなってしまう……っ。そう思った瞬間、審神者は慌てて横を向いて、
「も、申し訳ございません……っ」
それだけ言うと、瞬く間にその場から脱兎の如く逃げたのだった。
それからというもの、審神者は小竜を見ると、避ける所か逃げ出す様になった。食事の時も、仕事の時も、廊下ですれ違う時ですら、逃げた。それがいつもの自分であれば考えられない行動をしている自覚はあった。
しかし、自分ではどうする事も出来なかった。きっと、前以上に他の男士から見たら、審神者の小竜へ対する常ならぬ所作や行動に困惑していただろう。それでも、審神者は逃げた。逃げて逃げて逃げ続けた。
だが、流石にあからさま過ぎたかもと、少し後悔しているのも事実だった。それでも、やはり恥かしいものは恥ずかしいのだ。それなのに……。
どうして、いつも小竜様が近くにいるの……っ!? 逃げている筈なのだが、気が付くと何故かいつも小竜が傍にいて、笑っているのだ。それを見てまた逃げる――というのを繰り返していた。
そんな日々が一週間ぐらい経過した頃だろうか。そろそろ、真面目に小竜へ避けていた事への謝罪をしなければと、思っていた時だった。不意に、部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
「……?」
誰だろうと思って、審神者が「どうぞ」と答えた時だった。
「あ、今日は逃げないんだね」
「え……」
その声に、審神者がぎくりと顔を強張らせた。慌てて振り返ると、視界に透き通るような紫水晶の瞳と、靡く金色の髪が入ってきた。見間違える筈がない。それは――。
「こ……」
小竜様……っ!? そう思った瞬間、知らず身体が逃げ様と動いた。だが、それが叶う事はなかった。気が付けば、その長い指に手を絡め取られたかと思うと、あっという間に小竜の間合いに連れ込まれていたからだ。
「こ、小竜様……っ」
慌てて審神者が逃れようと暴れる。しかし、小竜がそれを見逃す筈もなく、そのまま審神者の腰を掻き抱くと、自身の方へと引き寄せた。
「……っ」
瞬く間に、審神者の顔がどんどん紅潮していく。それと同時に、全身が熱くなっていくのを感じた。
「あ、あの……っ」
審神者がその場から逃れる為に、何か言葉を発しようとした時だった。不意に伸びてきた小竜の指が、それを遮るかの様にそっと審神者の唇に触れてきて、
「駄目だよ、主。悪いけど、今日は逃がしてあげられない」
そう言ってにっこりと微笑んだが、その紫水晶の瞳は笑っていなかった。思わず審神者が息を呑む。
と、その時だった。突然、小竜がひょいっと審神者を横抱きに抱き上げたのだ。それに驚いたのは、他ならぬ審神者だった。まさかの小竜の行動に、審神者が慌てて口を開こうとしたが、小竜の瞳を見た瞬間、その言葉を発する事が出来なくなった。
小竜は、そのまま審神者を連れて部屋の中に入ると、扉を閉めて鍵を掛けた。そして、衝立の向こうにある、続き部屋の方に向かう。小竜の行動の意図が読めず、審神者が困惑していると、小竜がにっこりと微笑んだ。その笑顔の意味が分からず、ますます審神者が混乱している時だった。
「ここでいいかな」
「え……」
そう言って小竜がやってきたのは、審神者の私室兼寝室になっている一番奥の部屋だった。そこには、鏡台や他の調度品、そして寝台なども置いてある。何故この部屋に? と、思うも、それを聞く勇気は、今の審神者には無かった。
そうこうしている内に、小竜は寝台の方に向かうと、そのまま審神者をそこにそっと降ろした。まさか寝台に運ばれるとは思わず、審神者の表情が一気に緊張の色に変わる。思わず、自分の寝台を見た後、小竜を見てしまう。だが小竜は笑ったままで、その笑顔からは何も読み取れなかった。
「あ、あの……、小竜さ……」
沈黙に耐えかねた審神者が「小竜様」と呼ぼうとした瞬間、小竜がしっと、人差し指を自身の口に当てた。それから、ゆっくりとした動作で審神者の前に片膝を折ると、そっとその手を握ったのだ。
突然手を握られ、審神者がぴくんっと肩を震わせる。しかし、小竜は気にした様子もなく、にっこりと微笑むと、
「それで? どうしてキミはこの一週間、俺から逃げていたのかな?」
「え……っ」
いきなり核心を突かれて、ぎくりと審神者の表情が強張った。咄嗟の事で、どう答えて良いのか分からず、視線を泳がせる。その瞳には、戸惑いの色が出ていた。
ど、どうしよう……何って言い訳をすれば……。まさか、正直に「恥ずかしかったから」などとは言えず、かといって、他に理由がある訳でもなく、どうして良いのか分からなかった。
そんな事を考えていた時だった。審神者のその反応が、困惑している様に見えたのだろう。小竜はそんな審神者を見上げながら、少し哀しげに苦笑いを浮かべた。そして、そっと握っている手に力を籠め、
「……俺、キミに嫌われる様な事、したかな……」
そう呟いた小竜のその声は、少し寂しそうだった。
「え……? あ……」
その時、審神者は初めて気が付いた。自分が恥ずかしいからと、小竜から逃げ回っていた事で、彼にあらぬ誤解をさせてしまっていたという事実に。だが、それを否定しようにも、何をどう説明すれば良いのか、今の審神者には分からず、押し黙ってしまった。
そんな審神者を見て、それを肯定と取ったのか、小竜は一度だけその紫水晶の瞳を瞬かせると、哀しそうな笑みを浮かべ、
「ごめん。俺にこんな風に言われても困る……よね」
そう言って、すっと立ち上がると審神者から一歩後ろへと離れた。それからそのまま踵を返すと、奥の間から出て行こうとした。
「あ……」
その背中を見た瞬間、審神者の中で何かが囁いた。このままで良いの……? 本当に? 後悔――しないの?
私は、私の〝本当の気持ち〟は――。
「……って」
違う。嫌ってなどいない。
「……って、下さい」
あの時も嫌では無かった。ただ恥かしかっただけで。でも、それを知られるのが、怖くて……。ただ、私が臆病になっていただけだった。小竜様は、何も悪くないのに――っ。
「……っ。待って下さい、小竜様っ!!」
その後の事は、よく覚えていない。無我夢中で、今言わなければ、全て失ってしまう気がして、必死だった。もう、自分の恥ずかしい気持ちなど二の次で、ただただ小竜を引き留めたくて、それしか頭になかった。
去っていこうとする彼の背を必死に追いかけて、しがみ付く様にその背に手を伸ばした。そして、ぎゅっと小竜の外套を握り締めると、震える声で叫んだのだ。
「嫌ってなど……っ、いませ……ん。そんな、そんな哀しい事、言わないで、下さ……っ」
知らず、その瞳から涙が零れた。抑えきれなかった想いが溢れて、溢れて止まらない。ああ、私……こんなにも、この方を。初めて逢った時から、ずっと――。
「……好き、なんで、す」
声が震える。でも……。
「ずっと……、最初からずっと、貴方様の事が……」
好きだった。その声で呼ばれる度、笑顔を見る度に、心が躍った。その手に触れられるとくすぐったくて、嬉しかった。だからあの時、貴方の膝枕と、寝顔を見られたという事実が、酷く恥ずかしかった。顔を見ると、あの時の光景が蘇って、思わず逃げてしまった。でも、その行動が誤解を生んでしまったのなら――。
その時だった。小竜が振り返ったかと思うと、いきなりそのまま審神者を抱き締めてきたのだ。余りにも突然の事に、審神者は驚いたかの様にその瞳を瞬かせた。驚きの余り、涙が引っ込んだぐらいだ。一体、今、自分の身に何が起きているのだろうと思ってしまう。
「あ、あの……、小竜さ、ま……?」
審神者が、恐る恐るそう声を掛けが、小竜は審神者の肩に顔を埋めたまま動かなかった。えっと……。これは、どう……す、れば……? そう思っていると、小竜が何故か手を上げてきた。そして、小さな声で、
「ちょ、ちょっと待って……」
そう言う小竜の顔は真っ赤に染まっていた。見ると、耳まで赤い。え……? と、審神者が困惑していると、小竜がこちらを向いて、
「今の、本音?」
「え? あの……」
どれの事だろうかと、審神者が思っていると、小竜が少し言いにくそうに、咳払いをして、
「その、だから。キミが、俺を……好き、って」
改めて本人からそう言われると、何だか恥ずかしくなり、審神者がかぁっと、その頬を朱に染めた。それから、少し俯いた後、小さくこくりと頷く。すると、小竜が突然「はは……」と、笑い出した。
いきなり笑い出した小竜に、審神者が驚く。が、次の瞬間、ぎゅっと更に抱き締める手に力を籠められた。
「あ、あの……。小竜様……?」
戸惑いつつそう声を掛けると、小竜がほっとした様に息を吐きながら、
「良かった……嫌われてた訳じゃなかったんだ」
「そんな……っ、嫌ってなど――」
小竜の言葉に反論する様に、審神者が声を出した。すると小竜は、くすっと笑って。
「うん、キミの気持ちは伝わったから。それに――」
そっと審神者の耳元に唇を寄せる。そして……。
「俺も、好きだし」
「……っ」
その言葉に、審神者が今までにない位顔を真っ赤にしたのは当然で、それを見て小竜がまた嬉しそうに笑ったのだった。
ネームレスです
アンソロジー「俺とキミが辿る旅路」に寄稿したものです。
2024.07.20