INNOCENT LYNC

    -イノセント・リンク-

 

◆ ヴァイオレット・クイーン3

 

 

―――憩来坂町 憩来坂商店街

 

 

南雲は、あてもなく憩来坂商店街の中を走っていた。結局、あの後――坂本商店をすぐ出て莉紅の痕跡を辿ったが、この商店街まで来た事しか分からなかったのだ。一軒一軒店の人に聞くと、逆に悪目立ちしそうで、聞くわけにもいかない。道行く人を見ながら、南雲は莉紅を探した。

 

彼女は今も、あの頃と変わらない白い服を着ているらしい。それはある意味目印とも言えた。だから、すぐ見つかる――そう、思っていたのに、現実はそうではなかった。

南雲に気付き、隠れてしまったのか。それとも、もう商店街から出てしまったのか……。

 

「莉紅……」

 

柄にもなく、汗が頬を伝う。それを袖で拭うと、南雲は「はぁ……」と息を吐いた。

 

 

『与市君』

 

 

そう言って、笑って自分の名を呼んでいた彼女の顔が脳裏を過る。この4年間、一度も忘れた事の無い彼女の笑顔。どうして、4年前、彼女はあんな事・・・・をしたのか――。

 

 

 

 

 

『は?』

 

最初それを聞いた時、南雲は耳を疑った。今、目の前の男は何と言っただろうか。すると、長めの金髪に、頬に傷のある男が、「はぁ……」と言い辛そうに息を吐いた。

 

『何度も言わせんなや。……莉紅が、俺らが留守の間に、殺連の構成員を1000人虐殺したんや』

 

『……』

 

『この行為によって、殺連は規定によりあいつをORDERから除名、“特A級抹消対象”に認定したらしいねん。見つけ次第、抹消しろ言うてた。せやから――』

 

『……』

 

『南雲、聞いてん?』

 

『……』

 

『南雲?』

 

反応のない南雲を見て、金髪の彼が顔を覗き込んでくる。が――彼の表情が一瞬固まった。あの、いつもへらへら笑っている南雲から、完全に笑顔が消えていたからだ。否、動揺していると言ったほうが正しいのかもしれない。金髪の男が「あー」と声を漏らしながら、

 

『莉紅と、お前はJCCからの同期やったか……。まあ、仲良いみたいやったし? 信じたくない気持ちは分からんでもないが――防犯カメラにバッチリ映ってるらしいねん。動機は不明。今、調査してるらしいんや。殺したくない気持ちも俺かて分かる。せやから、お前も出来るだけ莉紅に接触――』

 

「しないように」と言おうとした時だった。南雲の身体がゆらりと揺れたかと思うと――いつの間に持っていたのか、銀色のサバイバルナイフが金髪の男の首に突き付けられていたのだ。

 

『……おいおい、勘弁してくれや。俺にお前まで殺させる気か』

 

金髪の彼が降参のポーズのように、両手を上げる。すると、数段低い声で南雲が口を開いた。

 

『“お前まで”? お前なんかに僕が殺せると思ってる訳、神々廻――』

 

そう言った南雲の表情はなく、その黒曜石のような瞳には、怒りのような、困惑のような、読めない空気が漂っていた。それを見た金髪の彼――神々廻は息を呑むと、また「はぁ~」と息を吐いた。

 

『……冗談や。言葉の綾ってやつやねん』

 

『……笑えない冗談だね。それで? ――莉紅は何処』

 

『いや、それが分かったら苦労せえへんわ』

 

『……』

 

無言でじっと神々廻を見た後、南雲はそのまま ドスッ! と、そのサバイバルナイフを壁に突き付けた。それから、すっと柄から手を離すと、神々廻をそのまま残して歩きだす。

 

『おい、何処行くねん! そっちは――』

 

『――莉紅は僕が見つける。豹や、他の奴には一切手を出すなって言っておいて』

 

それだけ言うと、そのままその場を去っていったのだ。残された神々廻は、また「はあああ~~~」と重い溜息を漏らすと、ぐしゃりと髪をその手で掴んで、

 

『勘弁してくれ。俺に死ね言うんか……』

 

そう言って天を仰ぐ。

 

『……莉紅が心配なんは、お前だけやないんや……』

 

そう言った神々廻の声が、南雲に聞こえる事はなかった――。

 

 

 

 

 

それから4年。彼女の足取りは一切掴めなかった。まるで、最初からこの世界の何処にも存在していなかったかのように、消えていた。信じたくなかった。彼女が――莉紅が、自分達を裏切っただなんて。自分を切り捨てただなんて。

 

信じられる筈が無かった。

 

「莉紅に……会わないと」

 

彼女に会って確かめたかった。どうして、そんな事をしたのか。どうして、ORDERを裏切ったのか、どうして……。

 

 

 

――自分を捨てたのか。

 

 

 

「莉紅……」

 

やるせない気持ちが、頭の中を支配する。彼女の事は何でも理解してわかっているつもりだった。その考え方も、思考も、行動パターンも、そして――。ぐっと、握りしめた拳に力が籠もる。ぽたり……と微かに血が滲む。

その時だった。目の前の角に、さらりと長い漆黒の髪に白い衣の女が入っていくのが見えた。

 

「……っ」

 

それを見た瞬間、思わず南雲が駆けだす。そこは、商店街から少し外れた裏路地だった。辺りを見渡すが、人ひとり見当たらない。見間違いだったのか。そう南雲が思った時だった。

 

「……まさか、まだ追って来るだなんて――私のストーカーなの? 与市君」

 

はっとして、声のした方を見ると――そこには、真っ白な純白の衣を身に纏った美しい紫蒼玉の瞳の女が、皮肉っぽく微笑んでいた。莉紅だ。

 

この時の南雲は自分で自分自身がコントロール出来なかった。胸の奥で張り詰めていた何かがぷつりと切れた瞬間、足が勝手に動いていた。一瞬、彼女の驚いたような顔が視界に入った気がしたが、それでも、止まらなかった。そうして気付けば、南雲は彼女をその腕で抱き締めていたのだ。

 

「莉紅……っ」

 

まるで、吐き捨てるかのように、彼女の名を呼ぶ。一瞬、莉紅の指が微かにぴくりと動いた。だが、まるでそんな事気付かなかったかのように、彼女はくすっと笑みを浮かべて、

 

「4年ぶりかしら。久しぶりね」

 

そう言って、ぽんぽんっと南雲の背を叩く。すると、南雲は抱き締める手に更に力を籠めてきた。それが少し苦しかったのか、莉紅が躊躇いがちに南雲の肩を押した。

 

「苦しいわ、与市く――」

 

 

 

「――逢いたかった……っ」

 

 

 

「……っ」

 

南雲の口から零れた、本音とも取れるその言葉に、莉紅が息を呑む。が、莉紅は少しだけ微笑むと、その紫蒼玉の瞳を伏せた。

 

「……私は、逢いたくなかったわ」

 

ぽつりと、莉紅の唇から残酷な言葉が零れる。

 

「だって、私と逢ったら、貴方は私を殺すのでしょう……?」

 

そう言って、そっと莉紅が南雲の頬に触れてきた。すると南雲がその黒曜石のような瞳を大きく見開く。

 

「そんな事する訳――っ」

 

「本当に……? 私の抹消命令が出てるでしょう?」

 

莉紅のその言葉に、南雲が息を呑む。だが、その瞳は哀しそうに揺れていた。そっと震える手で莉紅の頬に触れてくる。

 

「僕に、君が殺せるわけ、ない……だろう……」

 

ゆっくりと、お互いの顔が近付く。吐息が頬をかすめた。彼女の睫毛が触れそうなほど近く、呼吸が浅くなる。その彼女の瞳に自分だけが映っていた。ああ、莉紅だ……。ずっとずっと、逢いたくて、触れたかった彼女が今、目の前にいる――。

そう思うと、もう止まらなかった。彼女の形の良い唇を指でゆっくりとなぞると、南雲はそのまま彼女の唇に自身の唇を重ねたのだった。

 

「……っ」

 

瞬間、ぴくっと莉紅の肩が震えた。触れるだけの、一瞬だけの口付け――。目と目が合う。吐息が重なりそうになる。

 

「莉紅……」

 

ああ、そうだ……この瞳だ……。彼女の美しい紫蒼玉の瞳が自分を見ている。自分だけを映している。その事に、堪らない高揚感に満たされる。彼女に触れたい。彼女の全てが――自分に向けられればいいのに。嬉しさも、哀しさも、苦しさも、殺意さえも全て。

 

そう思うと、南雲は彼女の唇に再び触れていた。一度、二度と、角度を変えて口付けを繰り返す。彼女は抵抗しなかった。まるで、南雲の全てを受け入れてくれるかのように、その手が、そっと背中に回される。それが、心地良くて南雲は何度も口付けを繰り返した。

それは、莉紅の唇の感触を味わうかのようだった。柔らかくて温かい……。こんなに温かで柔らかいものが、人を傷つける武器になり得るのだろうか。そう思うと、南雲は堪らず唇を少し開いた。そしてそのまま、彼女の唇を開かせるように舌先を滑り込ませると――はっと、莉紅が息を呑んだのが分かった。だが、やはり抵抗はしてこなかった。ゆっくりと、莉紅の歯列をなぞると、小さく彼女が震えたのが分かった。先程とは違う感覚が唇に走る。その甘美さに南雲は酔いしれた。莉紅のその舌を追い掛けると、応えるように絡ませてくる。くちゅ……っと微かな音が漏れる。息が上がる。身体が熱かった。

 

もっと、もっと彼女が欲しい……っ。

 

そう思うと、何度も角度を変えて口付けを繰り返す。息が出来ないのか、莉紅が時折苦しそうにすると、少しだけ唇を離すが、またすぐに彼女の唇を塞ぐ。そして、そのまま彼女を壁に押し付けると――更に深く口付けるのだった。

 

 

 

どのくらいそうしていただろうか。もう時間も何も分からない。ただ分かる事は一つだった――。

 

――彼女が……莉紅が、欲しい……。

 

「莉紅――」

 

愛しい彼女の名を呼ぶ。すると、莉紅が微かにその瞳を開けた。視線と視線が交差する。すると、莉紅が微かに微笑んだ。でも、その瞳は哀しみに満ちていた。

 

「……もう、これ以上は駄目」

 

まるで、それ以上は許可出来ないというように、莉紅がそっと南雲の頬に触れると、ちゅっと、触れるだけのキスをしてくる。そして、ゆっくりとその手を離すと、そのままするっと南雲の手から抜け出した。

 

「莉紅……っ」

 

南雲が、莉紅の身体を捕まえようと手を伸ばす。が、その前に莉紅は身を翻して南雲から距離を取ると、そのまま彼に背を向けていた。

そして――彼女の声が聞こえた。それはまるで、小さな呟きのようだった。でもはっきりとした声で……。

きっと、聞いてはいけない言葉だったのだと思う。だが、既に遅かったのだ。莉紅の口から零れた言葉は、もう手遅れだった。それは、彼女の本心で、本音で、そして――彼女の本当の姿だった。

そう……彼女は言ったのだ。

 

「――私達、やっぱり逢わない方が良いかもね」 と。

 

南雲の鼓膜を震わせたその言葉に、南雲は目を見開いた。莉紅は南雲に背を向けたまま、 何処か諦めたような口調で呟くようにそう言うと――そのまま去って行ったのだった。

 

「莉紅……」

 

そう呟くと、南雲は壁に背を預けたままその場にずるずると座り込んだ。そして、そっと自身の唇に触れる。まだ彼女の感触が残っていて、思わず笑みが零れた。だが、それは何処か哀しいものだった。

 

僕は、何をしているんだろう……。

 

彼女を抱き締めて、口付けをして。でも、彼女は自分を拒んだのだ。どうしようもない虚無感に襲われる。だが、南雲はふっと自嘲気味に笑った。

 

――ああ、そうだ……。僕には莉紅を殺せない……。

 

そう、最初から分かっていたのだ。自分が彼女に逆らえない事も、彼女を殺せない事も。だって、ずっと昔から彼女の事を愛していたのだから……。だから、あの事件から4年経った今も尚、こうして彼女の後を追っているのではないか。

 

「は、はは……」

 

力なく南雲が笑う。自分は、彼女を殺せない。否――殺す事を放棄したのだ。自分の命よりも大切で守りたい人を見つけたから……。そう、それは彼女が初めてだったのだ。今まで、莉紅に逢うまで、誰かに恋した事も無ければ、誰かを愛しいと思った事も無かったのだ。他の人間などどうでも良かった。自分は莉紅がいればそれで良かったのだ……。

 

だが、その莉紅は自分を拒否した。もう逢わない方が良いと言ったのだ。それが彼女の本心なら、自分はそれに従うべきなのだろうと思うのに……。どうしても、素直に従う事が出来なかった。

 

南雲は立ち上がると、莉紅が去って行った方向をじっと見つめた。彼女の痕跡を少しでも、その瞳に刻むかのように――。

 

 

 

 

 

      ◆      ◆

 

 

 

 

 

―――殺連関東支部

 

 

「南雲、何処行っとったん。探してたんや――」

 

ふと、廊下ですれ違い様に、同じORDERの神々廻に呼び止められた。だが、南雲は挨拶すら返さず、一度だけ神々廻を見ると、その横をすっと通り過ぎようとする。それだけで、南雲の異変に気付いたのか、神々廻の表情が一瞬険しくなった。

そして、ぐいっと半強瀬的に南雲の腕を掴むと、監視カメラの設置されていない部屋に連れて行く。

 

部屋に入るなり、神々廻は南雲を壁に押し付けた。南雲が神々廻を睨み付ける。が、その黒曜石のような瞳には、いつもの覇気がなかった。

神々廻が呆れたように溜息を吐きながら、髪を掻き上げると、南雲に問い掛けるように、

 

「何があったんや。そないなしけた顔で殺連ここ歩いてたら、足すくわれるで」

 

「……」

 

南雲は答えなかった。答える代わりに、ふいっと神々廻から視線を逸らす。そんな南雲を見て、神々廻が「はぁ~」と盛大な溜息を付いた。

 

「何があったか知らへんけど、少しここで頭冷やしいや。平気になったら――」

 

 

「……莉紅に、逢った」

 

 

「呼び出しあるから、ORDERの部屋の方に――は?」

 

一瞬、神々廻の瞳が大きく見開かれる。それから、震える声でまるで確認するかのように、

 

「まじ、か……」

 

ごくりと息を呑む音が、部屋の中に響く。はっと見ると、南雲の片手が血で汚れていた。

 

「ま、まさか、殺ってもうたんじゃ――」

 

神々廻のその問いに、南雲が思わずむっとする。

 

「……僕が莉紅を殺す訳ないだろ」

 

南雲のその言葉を聞いて、心底ほっとしたのか、神々廻が胸を撫で下した。

 

「ほんまか。そないなら良かった~ビビらせんなや」

 

そう言って、ちらりと今一度血の付いた南雲の手を見る。その視線に気付き、南雲が

「ああ……」と声を漏らした。

 

「これは単に、手を握り締め過ぎて血が出ただけだよ」

 

南雲はそう言いながら、何でもない事のように手を払った。

 

「そいで、莉紅はどないしたんや?」

 

「……逃げられちゃった」

 

南雲のその言葉に、神々廻は小さく息を吐くと、がしぃ! と、南雲の肩を掴んだ。突然の神々廻の行動に、南雲が訝しげに眉を寄せる。だが、神々廻が構わず、

 

「今の話は、俺とお前だけの話にしとこや。幸いこの部屋に監視カメラも何もあらへん。他に聞かれると、厄介――「あ、神々廻さん、いた」

 

 

 

「――うわぁあお!!!」

 

 

 

その時だった。急に後ろのドアが がちゃっと開いて、黒いワンピースにベールを纏った女がひょっこり顔を覗かせのだ。あまりにも突然だった為、神々廻が驚いて、奇声を上げてしまう。

 

「なに、してるの? 2人とも……」

 

「お、お、驚かせんなや、大佛!!」

 

それは、同じORDERで、神々廻と組んでいる大佛だった。大佛は、壁際にいる大の男2人を見て、不審そうにじっと見てきた。神々廻が慌てて南雲から手を離すと、大佛に向かって、

 

「何でもあらへん! 大佛! ドア開ける時は、ノックぐらいしいや!!」

 

「あ……忘れてた……ごめんなさい」

 

そう言って、大佛がぱたんと一度ドアを閉める。それから、外からコンコンッとノックをしてから、再びがちゃっとドアを開けた。

 

「これでいい……?」

 

一応、神々廻の言う通りにしたらしい。そんな大佛に、神々廻が飽きれつつも「はぁ……」と溜息を漏らすと、

 

「もうええわ。んで、何の用やねん」

 

「皆、待ってる……」

 

どうやら、ORDERの招集に来ない神々廻を捜しに来たようだった。そういえば、自分も南雲を探していたことを思い出す。大佛の言葉に、神々廻が南雲を見やると、彼は黙ったまま静かにこちらを見ていた。それから、ゆらりと歩き出すと、そのまま神々廻と大佛の横を通り過ぎていく。

 

「お、おい、南雲――」

 

「ターゲット、何処」

 

「は?」

 

突然放たれたその言葉に、神々廻が素っ頓狂な声を上げる。その目を瞬きさせると、首を傾げた。

 

「南雲……?」

 

「――全員僕が殺るから、ターゲット情報早く持ってきてよ」

 

そう言い放った南雲はいつもの様に笑顔なのに、その目は今までに見た事もない程冷たく光っていて、神々廻の背筋をぞっとさせた。

 

「あ~」

 

この言葉に、どうやら今回のターゲットをストレス発散に使う気だなっと、神々廻が思ったのは当然で……。心の中で、「ご愁傷様やで」と手を合わせたのは言うまでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.08.24