深紅の冠 ~鈺神朱冥~

 

 第1話 紅玉 17

 

 

―――五条家本家 桜田屋敷・夜

 

 

気が付けば日はすっかり沈み、夜の帳が降りていた。凛花は、部屋の中から窓の外を眺めながら、何をするでもなく、ただぼんやりとしていた。綺麗に手入れのされた日本庭園の中、灯篭の明かりがゆらゆらと揺れている。その灯が、何故か酷く視界に入って来た。

 

「……」

 

あれから――五条はどうしたのだろうか。あの後、五条は一度として凛花の前に姿を現さなかった。もしや、この自室ではなく、今夜は客間で寝るつもりなのだろうか……。

確かにあの時、五条からゆっくり休む様に言われたが……まさか、寝る時間になっても、自室に姿を現さないなどとは思ってもみなかった。

思わず、凛花が小さく息を吐いた。

 

避けられて――いるのだろうか。

 

そんな風に思ってしまう。でも、避けられて当然なのかもしれない。何故なら、自分は彼の求婚を拒否したのも同然なのだから――。

 

「私……何をやっているのかしら……」

 

自分で望んで、自分で拒否したくせに、今更のように後悔している。ああ……私は、こんなにも彼の事を愛しているのに――素直になれない自分が情けない。兄・昴の事も、その兄を殺した五条の事も、全て解っているのに……。それでも、頑なに否定する自分が、己の中にいるのだ。

 

五条を許してはいけない。彼は、兄の仇だと訴える自分と――。

五条は悪くない。彼は兄を救ってくれた恩人なのだという自分。

 

鬩ぎ合う二つの感情が、凛花の中でぐちゃぐちゃになって、気がどうにかなってしまいそうになる。

否、違う。本当は全て解っている。答えも、自分の気持ちも、何もかも。ただ、「勇気」がないだけだ。

 

「情けない……」

 

五条の気持ちに甘えて、ずるずると「答え」を先延ばしにしているだけだ。こんな時、もし昴が居たらなんと言っただろうか……。『凛花は、馬鹿だなぁ』――そう言ったに違いない。

――会いたい。昴に。会って話がしたい……。いつもの様に頭を撫でて欲しい。

それは、叶わぬ夢だと分かっているのに――それでも……。

 

そう――思った時だった。

 

『―――』

 

「え……?」

 

何処からか、自分の名を呼ぶ声が聞こえた様な気がした。凛花が、慌ててはっとして辺りを見渡す。人の気配は――ない。けれど……。

 

「お……にい、さ、ま……?」

 

何処か懐かしい、優しい気配がした――気がした。そんな筈はないと、そう思うのに……けれど、この気配は――。

凛花は慌てて立ち上がると、そのまま庭先へと裸足のまま飛び出した。手や足に傷が付くのも無視して、その気配のする方へと向かう。

 

まさか……まさか、本当に……? 本当にお兄様が――。

 

淡い期待と、あり得ないという現実が、心の中で入り混じる。それでも、凛花は真っ直ぐにその気配の方へと駆けた。

向かった先は、庭園の奥にある四阿だった。美しい六角形の屋根に、木造作りの柱と椅子がある。そして、その四阿の周りに、この時期にいる筈のない、蛍が飛んでいた。

凛花は、ごくりと息を吞むと、その四阿の中央に向かって話し掛けた。

 

「お兄……さ、ま? そこに――いらっしゃるのです、か……?」

 

そう語り掛ける。しかし、返事はなかった。しん……と、静まり返った夜の庭園に凛花の声だけが響いていた。

 

「……」

 

そう、よね……。昴お兄様がいる筈がない――。お兄様は3年前のあの日、亡くなったのだから。

 

解っていた事だった。それなのに、酷く気落ちしている自分がいる。もしかしたら――と、そう思っていた己がいた。でも、現実はやはり、そんな甘くはなかった。

そもそも、イタコがいる訳でも、降霊を行った訳でもない。死んだ者は――生き返る事はないのだ。その事を、痛いほど解っているのに――何故、昴が居ると……そう、思ってしまったのか……。

 

「…………お兄様。私、どうしたらよいのですか……?」

 

気付けば、凛花はそう呟いていた。

 

「もう……どうしたらいいのか……解らないのです」

 

五条の事を、受け入れる事も、拒絶する事も出来ない。そんな優柔不断な自分が情けなくて、許せなくて。いっその事、このまま消えてしまいたくなる。考えても、考えても、答えなど見つかる筈もなく、無駄に時間だけが過ぎていく。

 

どうすればいいのか――答えが見つからない。

 

凛花は、そのままその場で顔を手で覆った。知らず、涙が溢れてくる。泣きたい訳じゃない、泣く資格など――ない。そう思うのに、溢れた涙が、次から次へと流れて、止まらない――。

そう――思った時だった。

 

ふわりと、何処からか風が吹いたかと思った時だった。誰かの手が、凛花の頭の上に乗せられた気配を感じた。その瞬間、凛花が何かに気付いたかのように、その深紅の瞳を大きく見開く。

 

こ、の……けはい、は……。

 

忘れもしない。ずっとずっと欲しかった。待ち望んでいた存在――。

いつも凛花が、辛い時、哀しい時、こうやって頭を撫でてくれた。顔を上げると、優し気に微笑んでくれていた。

 

「お、にい、さ……ま……っ」

 

昴だ。最愛の兄・昴の手の気配だ。

凛花が、思わず顔を上げようとした時だった。不意に、突風が吹いて凛花の視界を遮った。前が見えない。昴の姿を見たいのに――見て、安心したいのに、見えない。

 

「いらっしゃるんでしょう……!? お兄――」

 

その時だった。ふわりと、今度は後ろから優しい手で抱きすくめられた。その手・・・を見た瞬間、凛花は今度こそ、ぼろぼろと涙を流して泣き始めた。

 

「――お兄様、私……解らないのです。どうしたら……良いのでしょう、か……」

 

嗚咽を洩らしながら凛花がそう言った。すると、その気配は、優しく微笑んだかと思うと、

 

『大丈夫、凛花ならきっと答えを見つけられるよ――俺が保証する』

 

そう懐かしい昴の声が、頭に響いてきた。凛花は、振り返りたいのをぐっと堪えて、自分の前に、回されている手にそっと触れた。季節外れの蛍が、きらきらと光を放つ。

 

「……っ」

 

ああ……きっと兄には全て分かっているのだ。今、凛花がどうするべきか。そして、これから、どう答えを見つけるかも――全部……。

 

刹那、蛍が一斉に輝きだした。辺り一帯を照らすかのように、淡い光を放ち――そして、幻でも見ているかのように、空高くへと光が昇っていった。

 

「……」

 

凛花は、ただじっとその蛍の光が消えるまで、空を見上げていた。そうして、最後のひとつが消えた瞬間、静寂が辺りに広がっていった。まるで、今見ていたのは夢だったのかと錯覚しそうなほど、灯篭の明かりだけが四阿を照らしている。

凛花は、そっとまだ回されたままになっている手を見た。先程とは違う、もっとずっと優しくて、温かい気持ちになるその手を――。

 

ゆっくりと振り返る。そこには、慈しむ様にこちらを見ている五条がいた。そんな五条に、凛花がくすっと微かに笑みを浮かべる。

 

「悟さん……、いつの間に降霊が出来るようになったのですか?」

 

冗談めかしてそう尋ねると、五条はふっと笑みを浮かべると、

 

「僕、最強だから」

 

そう言って、ぎゅっと凛花を抱き締める手に力を籠めた。それから――。

 

「嘘。実はさっき、昴が突然僕の前に現れて、凛花の為に、少しの間身体を貸して欲しいって頼まれただけ。だから、僕は何もしてないし、昴と凛花が何を話したのかも知らないよ」

 

「……」

 

五条は簡単そうに言うが、死した者が目の前に現れて、「身体を貸して欲しい」なんて頼まれても、そうそう簡単に貸せるものじゃない。それは、五条が一番良く分かっている事だ。万が一、それが悪しき者だった場合、そのまま身体を乗っ取られる事だって考えられる。

それなのに――。

 

わた、し、の……た、め……?

 

凛花が、昴に会いたいと願ったからか――、だから五条は……。

 

堪らず凛花は、五条にそのまましがみ付いた。そして、その胸に顔を埋めた。五条が、一瞬驚いたかのように、その碧色の瞳を見開いたが、次の瞬間には、ふっと優しい笑みに変わって、そのまま凛花を抱き締め直してくれた。

 

「どうしたのかな。甘えん坊だね」

 

そう言って、優しく背を撫でてくれる。その手が酷く優しすぎて、凛花は溢れてくる涙を止める事が出来なかった。

 

「馬鹿……。悟さんの……馬鹿。でも……」

 

 

 

 

『大丈夫、凛花ならきっと答えを見つけられるよ――俺が保証する』

 

 

 

 

―――ありがとう、ございま、す……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ****    ****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――翌朝

 

 

「……酷い顔」

 

凛花は自分の顔を鏡で見ながら、小さく息を吐いた。目は真っ赤に晴れていて、顔も心なしかむくんでいる。無理もないと思った。

昨夜――あの後、五条の腕の中で泣いてしまい、結局そのまま泣きつかれて眠ってしまったのだ。気が付けば、朝で、五条の部屋に寝かされていた。きっと、運んでくれたのだろう。そう考えると、顔から火が出る程恥ずかしかった。

 

「……悟さん」

 

名前を呼ぶだけで、かぁっと熱くなる顔に、なんだかどうしていいのか解らなくなる。

とりあえず、この顔をどうにかしないと……。

とてもじゃないが、こんな顔で人前に出るのは憚られた。自分のマンションなら、シャワーをさっと浴びる事も可能だが、ここは五条家。そうはいかない。

凛花が、どうしようかと考えあぐねている時だった。

 

「失礼致します」

 

部屋の外から女中の声が聞こえてきた。

 

「あ……っと、その……」

 

凛花が、困った様に言葉を詰まらす。すると、女中は全て察しているかのように、

 

「凛花お嬢様。湯殿の用意が整っておりますが、如何いたしますか?」

 

女中のまさかのその言葉に、凛花が「え?」と、驚いたかのように声を洩らす。まるで、凛花の心を読んだかのようなその言葉に、「何故」と思ったのは、いうまでもなく……。でも、ありがたい申し出でもあった。

ただ、疑問もあるのは当然で……。いつもならば、五条が指示を出して用意する事はあっても、それが習慣として、毎朝湯を使うのが五条家のやり方とは、とても思えなかったからだ。

と、そこまで考えて、ある事に気付いた。

 

「あ、あの……もしかして……」

 

「はい。悟様が、お嬢様は湯を使いたいだろうと仰られましたので」

 

「……っ」

 

ああ、やはり……。全部、彼にはお見通しなのだ。

そんな五条の優しさに、凛花は胸が熱くなるのを感じた。いつもいつもそうだ。五条は、常に凛花の事を考えてくれている。それが嬉しくもあり、くすぐったくもあった。

 

 

 

 

 

   ****    ****

 

 

 

 

 

湯殿を使わせてもらった後、身支度を整えて、女中に案内された部屋へと向かう。そこ部屋に行くと、五条が座って待っていた。

ふと、やってきた凛花に五条が気付くと、ふっと優し気に笑みを浮かべて、

 

「おはよう、凛花ちゃん。よく眠れた?」

 

「……っ」

 

五条の何気ないその言葉に、凛花が息を吞む。凛花は、どきどきと脈打つ心臓に気付かないふりをすると、そのまま五条の隣に用意されている席に向かった。

座ると、すっと五条が凛花の髪を梳くように触れてくる。そんな何気ない仕草にも、どきっとしてしまう自分が、なんだが恥ずかしかった。

 

「あ、あの……悟さん」

 

「ん?」

 

「その……お湯の用意、ありがとうございました」

 

気を紛らわせようと、先程の湯のお礼を言うと、五条はくすっと笑って、

 

「……どういたしまして」

 

そう言って、そのまま凛花の髪をひと房掬うと、その髪に口付けを落とした。そんな五条の行動に、凛花が息を吞むのが分かった。その顔は、どんどん真っ赤に染まっていき、発する言葉を失ったかのように、口をぱくぱくさせている。そんな凛花が余りにも可愛すぎて、五条は笑ってしまった。

 

「も、もう……っ! 悟さ――」

 

凛花が、抗議する様に口を開いた時だった。

 

 

 

 

  パ……キイイイイイ―――ン……

 

 

 

 

突然、「空間」が――止まった。

 

 

 

「――凛花っ!!!」

 

 

 

五条が叫ぶのと同時に、凛花を抱き寄せる。凛花も一瞬何が起きたのか解らず、慌てて辺りを見渡した。

見ると、目の前で朝餉の用意をしていた女中達が、まるで時間が止まったかのように、その動きを制止していた。風もなく、音もない。まさかの五条家本家敷地内の、結界の中で起きた出来事に、冷や汗が流れる。

この場で、動けるのは、五条と凛花だけだったようだった。

 

刹那、青かった朝空が、金色へと変わっていく――。

それは、つい最近、ある場所で見た光景と同じだった。そう――あの、宿儺の生得領域で見たのと同じ――。

 

「……お、とうさま……?」

 

こんな事が出来るのは、一人しかいない。凛花の父であり、神妻家現当主・神妻零你れいじだけだ。

すると、何処からともなく、あの時と同じように“神妻”の霊獣である霊狐が姿を現した。その霊狐は、そのままふわりと五条と凛花の前に降り立つと――。

 

《我が主から伝言です》

 

脳に直接響くような“声”が木霊する。そして――。

 

 

《五条悟。本日巳の刻にて待つ》

 

 

キイイイン――と、高く響くような“声”が頭に入ってくる。それだけ言うと、霊狐はくるっと回転して、そのまま消えてしまった。

瞬間、辺り一帯の時間が正常に戻る。空も金から青へと元に戻っており、目の前の女中達も、何事も無かったかのように、朝餉の用意をしている。

ただ、五条と凛花だけが、唖然としたまま、消えていった霊狐のいた場所を見つめていた。

 

「これは……もしかしなくとも、“神域”破ったことへのお叱りを受けるのかな……?」

 

「お、おそらく……」

 

否、それだけではない。きっと“伊邪那岐”を使った事への、説教も入っている様な気がした。

まさかの、凛花の父からの呼び出しに、二人が心の中で溜息を付いたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2024.11.08