深紅の冠 ~鈺神朱冥~

 

 第1話 紅玉 16

 

 

「ねえ、凛花……俺達が婚約して、何年経ったと思う?」

 

「え……?」

 

五条のその言葉に、ぴくりと凛花の肩が微かに震えた。そんな凛花に、五条はくすっと笑みを浮かべ、

 

「――5年。5年も経つんだよ?」

 

「……そ、れは……」

 

五条とは、凛花が高校卒業するのと同時に婚約した。それから2年間、ずっと一緒にいた。楽しい時も、辛い時もずっと一緒だった。けれど、3年前“あの事件”があった時から、凛花は――。

 

「ま、待って下さい。その話は……」

 

「もう、十分待ったよ。だから――」

 

そっと、五条の手が凛花の髪をひと房掬うと、そのまま口付けを落とす。それから、真っ直ぐに凛花を見つめ、

 

 

 

 

  「――そろそろ、俺のお嫁さんになってよ」

 

 

 

 

「……え……」

 

その時凛花は何を言われたのか、理解出来ていなかった。その深紅の瞳を大きく見開き、言葉を失ったように、唖然とする。彼は今何と言っただろうか。

『そろそろ、俺のお嫁さんになってよ』

そう、言われた様な――気がした。

 

「…………さ、と……」

 

言葉が出ない。何と返せばいいのか分からない。五条の碧色の瞳から、目が離せない――。

 

ざああああっと、風が部屋の中に入ってきて凛花の髪を揺らす。そんな凛花に、五条はふっと微かに笑みを零すと、そっとその身体を抱き締めてきた。

 

「凛花はさ、俺のお嫁さんになるの……嫌?」

 

「……っ」

 

五条のその言葉に、凛花が息を吞む。

私は……私だって、本当は――。でも、わた、し、は……。

 

「……っ、……め、です、よ……。私に、悟さ……んの、……な、んて資格は――」

 

「そんな事ないよ。オマエは今でも俺にとって一番大切だし、幸せにしたいと思ってる」

 

違う。そうじゃない。

そうじゃないの……っ。

 

凛花が小さくかぶりを振る。まるで、自分の全てを否定するかのように、何度も何度も首を横に振った。すると、そんな凛花に五条は優しく笑みを浮かべると、頭を撫でてきた。そして、そのままその瞼に口付けを落としていく。凛花が安心出来るように、優しく優しく触れる。

 

知らず、涙が零れた。五条にそうやって触れられると、ずっと心の中で燻っていた感情が溢れてきそうで――。涙を、流さずにはいられなかった。

 

「馬鹿、泣くな」

 

「泣い……て……なん、て……っ」

 

「泣いてる」

 

五条が、そっと凛花の涙をその手で拭う。その手が、酷く優しすぎて、凛花はまた涙を流した。

心が――苦しい。痛いほど、彼の気持ちが伝わってきて……。それでも、それに素直に頷けない自分がいて、苦しい――。苦しくて苦しくて、いっそ壊れてしまえばどんなに楽かと、思ってしまう。

 

そんな凛花を見て、五条が少しだけ寂しそうに笑った。そして、そっと凛花を頬に触れると、

 

「まだ、昴の事が忘れられない? あの日――昴にとどめを刺した俺が殺したいほど憎い?」

 

「……っ」

 

見透かされた と、思った。

五条の言葉に、凛花が息を吞むのは同時だった。3年前のあの日――最愛の兄・昴を救うには、もうそれしか方法がなかった。解っていた。頭では理解していた。止められたのは、五条だけだという事も。そして、その方法は、ひとつしかなかったという事も。

 

どんなに凛花が、叫んでも――凛花の声は昴には届かなかった。届かなかったのだ――。

 

だから、呪術界上層部は呪術規定に法り、昴の“処分”を決めた。

 

 

 

―――“処刑”と。

 

 

 

それについて、勿論神妻家は抗議したが、無駄だった。事実、被害は甚大で、もう神妻だけでは収拾出来ない領域にまで達していた。そして――御三家の承認も下りていた。そう、神妻と懇意にしていた五条家も承認したのだ。その時の、五条家当主は五条悟だった。

五条は承認する代わりに、「ある条件」を出したという。それは……。

 

『神妻昴は、自分が処理する』――というものだった。

 

御三家である、禪院家・加茂家には一切の手出しを禁じた。それだけではない、他の術師も、補助監督も、全てを関わらせなかった。自分1人だけで、行う――それが最低条件として提示したものだった。

 

そして、3年前のあの日――五条は異形と化した昴と対峙した。たった1人で――。神妻の者だけが見守る中、昴の胸を貫いたのだ。その瞬間を、凛花も見ていた。

本当は、心のどこかで信じていたのかもしれない。兄が――昴が、元に戻ってくれることを。そして、笑いながら「ごめんね」と言って、帰ってくることを。だが、現実は違った。もう手の施しようがない所まで昴はきていたのだ。人が人でなくなるその瞬間を目の当たりにした。姿も声も形も、何もかもが「人」ではなくなる、その瞬間を――。そして、それを止めたのが五条だった。

五条は昴を「人」として救ってくれたのだ。感謝こそすれ、恨むなどお門違いなのは解っていた。でも……その時の凛花には受け入れるだけの“心”が無かった。

 

最愛の兄が、愛していた人に殺された。

 

その事実が、凛花の心を支配していった。

どうして。何故。

 

そう――思わずにはいられなかった。そう思わなければ、心が壊れてしまいそうだった。どんなに願っても、どんなに思っても、もう昴は帰ってこない。二度と笑いかけてはくれない。

気付けは、五条を好きだと想う気持ちと、兄を殺した敵だと思う相反する気持ちが、心の中で鬩ぎ合って、自分で自分の気持ちが解らなくなっていった。五条を恨まなければ――心が壊れてしまいそうだった。それなのに……。

 

五条は3年前も、今も変わらず凛花に接してくれた。何度、その命を取ろうとしても、笑って許してくれた。頭を撫でてくれた。

本当は、凛花も解っていた。五条を恨むのは間違っている。お門違いもいい所だと――頭では解っていた。それでも、心が付いてこなかった。五条を許したその瞬間、その心が粉々に砕けそうで。

結局は、自分の事しか考えていなかったのだ。自分の心を守る為に、五条に八つ当たりしていたのだ。五条もそれを解っていたから、何も言わなかった。いつも通り、接してくれた。でも……。

 

凛花は、そんな自分が許せなかった。兄の仇だと言いながら、本当は自分の心を守りたいが為のエゴを押し付けていただけだなんて、許せる筈がない。たとえ、五条が許しても、自分で自分が許せなかった。

 

私は――悟さんに相応しくない。愛される資格などない。

 

そう思う様になったのは、いつの頃からだろうか。五条に触れられる度に、苦しくなる。いたたまれない気持ちになる。拒絶しなければ――そう思うに、出来ない自分がいる。矛盾している、と凛花は思った。その「矛盾」に気付いているのに、気付かない振りをしていた。でも――。

 

『俺のお嫁さんになってよ』

 

これは、受け入れてはいけないのは明白だった。自分に彼の想いを受け入れる資格など無い。頷いては――いけない。

そう……解っているのに……。

 

「さ、とる……さん……」

 

解ってる、頷けない。頷いてはいけない。拒否しなければいけない。そう、理解しているのに――言葉が、出ない。ただ一言、「出来ません」と言うだけなのに、その言葉が紡げない。何度口にしようとしても、音にならない。

 

凛花が堪らず視線を落とした時だった。不意に、五条の指が凛花の顎に動いたかと思ったら、そのまま上を向かされた。

 

「ぁ……」

 

そこには、優しげだが、どこか寂しそうな五条の顔があった。その表情を見た瞬間、また凛花の心がずきりと痛んだ。

こんな表情させたいんじゃない――もっと、笑っていて欲しいのに……。

そう思うのに、結局凛花は、五条に何度もこんな表情をさせている。それが、苦しくて、申し訳なかった。

 

「あ、の……わた、し……は……」

 

凛花がやっとの思いで、口を開きかけた時だった。不意に、五条の顔が近づいてきたかと思うと、そのまま唇を重ねられた。堪らず、ぴくんっと凛花が肩を震わす。

 

「さと……」

 

「いいよ、まだ気持ちの整理付いてないみたいだし。もう少しだけ、返事は待ってあげる」

 

「……っ」

 

「でも――」

 

凛花の耳元で、ちゅっと軽くリップ音を立てて口付けると、そのまま囁くように告げた。

 

、気は長い方じゃないから――。後、“ごめんなさい”も禁止ね」

 

「そ、れは……」

 

凛花が慌てて口を開こうとした時だった。しっと、五条の長い指が凛花の唇に触れた。

 

「駄目だよ。それ以上は聞かないから」

 

優しく、だが有無を言わせない口調でそう言うと、そのまま五条の指が離れていく。そして、そっと凛花の手を取ると、手の甲に口付けたのだ。

 

「……っ」

 

その仕草があまりに様になっていて、凛花の頬がみるみる朱に染まっていく。それが分かったのだろう。微かに五条の口元に笑みが浮かんだ。その表情を見た瞬間、凛花は堪らず視線を逸らしてしまった。

もう何度目だろうか。こんな自分を見られたくなどなかったのに……。でも――それでも本当は傍にいたかった。離れたく無かったのだ――たとえどんなに苦しくても、辛くても……彼の傍にいたかった。

 

そんな凛花を見てか、五条もそれ以上は何も言ってこなかった。そのまま、そっと優しく凛花を抱き締めると、

 

「おやすみ、凛花。愛してるよ」

 

そう告げて、ゆっくりとその手を離そうとした、が――。

 

「さ……とる……さん……」

 

微かに聞こえた声に、五条の動きがぴたりと止まった。それは気のせいだったのだろうか。その一瞬の迷いの間に、凛花は五条の身体にぎゅっと抱きつくと、そのまま彼の胸に顔を埋めたのだ。

 

「……凛花?」

 

思わず、五条の動きが止まった。その碧色の瞳が見開かれる。だが次の瞬間くすっとその口元に笑みを浮かべると、そっと凛花の身体を抱き締め返したのだ。そして――。

 

「僕もだよ、凛花――」

 

そう小さな声で囁くと、そっと凛花の髪を優しく撫でた。その感触に、凛花が五条の身体に回した手にぎゅっと力を籠める。

このまま時が止まってしまえばいいのに……と、凛花は思った。五条を誰にも渡したくない。彼を縛り付けたいわけじゃないのに、彼を離したくなかった。五条からの求婚を拒んでおいて、何を今更――と、言われるかもしれない。それでも傍にいたかった。

 

 

この想いは――きっともう止められない……。

 

 

でも、私は悟さんに相応しくない……。だから……この想いも伝えない方がいいんだわ。

そう自分に言い聞かせながら、凛花は五条に擦り寄った。

 

それから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。やがて、五条の腕の力が緩んだのを感じた凛花はそっと顔を上げた。すると、それに気付いたように五条も身体を離し、顔を覗き込んできた。

その碧色の瞳が、愛しむように細められるのを見て、思わず胸が高鳴る。だがそれを悟られないようにしながら、視線を逸らそうとした時だった。不意に、額に口付けられたのだ。まるで愛おしいと言わんばかりに触れてきた唇が離れていくと、そこには悪戯っ子のような笑みを浮かべた五条の顔があった。

 

「今夜はゆっくり休んで」

 

そう囁くと、今度は頬に軽く口付けて、そのまま部屋を出ていった。その背中を見送ると、凛花はそっと自分の頬に触れた。まだそこに五条の唇の感触が残っているような気がして、思わず頬を赤らめてしまう。

 

「狡い……」

 

そんな呟きが漏れる。だがそれは誰の耳にも届くことなく、静かに消えていったのだった――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ◆      ◆

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――呪術高等専門学校・東京校 グラウンド 夕方

 

 

 

夕方になっても、相変わらず2年生からの特訓は続いていた。伏黒は未だに真希と狗巻から1本取る事すら叶わず、釘崎はパンダに何度も投げ飛ばされていた。

 

「はぁ……」

 

どさっと、疲れた身体を投げ出すように、伏黒は芝生の上に腰を下ろした。タオルを頭からかぶり、座り込む。真希に「オマエは雑念が多すぎる。少し頭を空っぽにして来い!」と言われたのだ。

原因は解っている。あの時の事をまだ引き摺っているのだ。

 

 

『―――恵君! 駄目よ!! それ・・は―――っ!!!』

 

 

あの時――少年院で両面宿儺と対峙した時、伏黒は無意識下で「あれ」を呼ぼうとした。制御できないと解っていても、それしか宿儺に対抗出来る方法が無いと思ったから……。でも、飛んできた凛花に止められた。

もし、あの時凛花に止められていなければ、今死んでいたのは虎杖ではなく、伏黒だった。ここにいるのは、自分ではなく虎杖だったかもしれないのだ。

そう思うと、やるせなかった。今こうして自分が生きながらえているのは、凛花と虎杖のお陰だ。2人がいなかったら、自分は間違いなく死んでいた。

 

虎杖はどんな気持ちであの時の言葉を吐いたのだろうか。死ぬ直前まで、他人の心配ばかりしていた。死にたくないと、生きたいと、泣き叫んでくれればよかったものを――彼は、それをしなかった。

笑っていた。だから、伏黒もその思いに報いるべきだと思った。静かに、見守るべきだと思った。だから、凛花が虎杖を助けに行こうとしたが、止めた。その腕で抱き締め、自分の元に繋ぎとめた。

 

だが――。今思えば、それが“正しい選択肢”だったのかは、分からない。間違っていたとは思わない。しかし、正しいかと問われると、そうだとは言い切れなかった。

こんな時、どうすればいいのか――伏黒には解らなかった。術師の死を目の当たりにした事は何度もあった。でも、近しい存在が、死んだのはこれが初めてだったのだ。それに――。

 

『な、んで……恵君……』

 

脳裏に、あの時の凛花の顔が過ぎる。凛花は、伏黒の行動をどう思っただろうか。軽蔑――されただろうか。あの時、凛花は傍にいてくれた。けれど……。

 

「はは……嫌われた、かな……」

 

あの後、凛花には一度も会えていない。もしかしたら、避けられてるのかもしれない。それはそうだろう、自分は虎杖を見殺しにしたも同然なのだから。

それでも――。

 

「凛花さん……」

 

逢いたい。彼女に逢って話がしたい。声が聞きたい。彼女の言葉で、「大丈夫」だと言って欲しい。そうすれば、気持ちが落ち着くような気がした。

 

こんなの、自分の我儘だと解っている。エゴだという事も解っている。

 

 

  それでも、そう思わずにはいられなかったのだった―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ざっくり、3年前の話入ってます

 

2024.08.23