深紅の冠 ~無幻碧環~

 

◆ love at first sight:second contact(hrhn)

 

 

―――私立・鳳皇女学院

 

 

午前の授業が終わり、講堂から教師が退出した後、凛花は教科書とノートを整えてブックバンドで留めていた。すると、下の段にいた女生徒達が、嬉しそうにある雑誌を開いて、話に花を咲かせていた。

 

「ね~! この“はらほん”かっこ良すぎでしょ~」

 

「分かる~~! めちゃくちゃかっこいいよね!!」

 

そう話す女生徒達の方に、一度だけ視線を向けた後、凛花は首を傾げた。

そういえば、先日、兄の昴が実家に連れて来た2人組。確か、五条悟と夏油傑と言っていただろうか。あの2人が今人気の漫才コンビ“祓ったれ本舗”なのだと、昴が教えてくれた。

正直、凛花はテレビも観ないし、芸能関係も疎いので、そう言われてもぴんっと来なかったのだが、あの時の友人や、この女生徒の様子を見る限り、かなり人気があるようだった。

ちなみに、昴はあの2人のマネージャーらしい。

 

「……」

 

瞬間、あの時、五条の腕に抱き締められた事を思い出して、凛花の顔がどんどん朱に染まっていった。昴以外で初めて男の人に抱き締められた。兄とは違う、もっと別の“知らない男の人”。

 

「……っ」

 

熱くなる顔を冷ますように、小さくかぶりを振った。

 

お兄様が、誰のマネージングをしていたとしても、私には関係のない話よ。

 

そうだ、先日は偶然逢ってしまったけど、もうきっと五条達に逢う事もないだろう。人気があるのならば、彼らは忙しい筈だ。凛花は昴の妹だけれど、一般人。芸能人に直に逢うなど、一生に一度あるかないかだろう。

その一生に一度をこの間、使ったのだ。だから、もう五条達に逢う事はない。

 

そう思って席を立つ。そして、そのまま講堂を出ると中庭に向かった。この時間、中庭の木陰はとても気持ちの良い風が吹くのだ。日差しも暖かくなり、人気も少なく、お昼をゆっくり食べるには、絶好の場所だった。

 

凛花がいつも通り中庭へ行くと――何故か、先客がいた。

 

「え?」

 

それは、白い毛並みのふわふわの猫だった。学院内に動物が紛れ込むのはそこまで珍しい事ではないが、この整った毛並みから察するに、誰かの飼い猫か何かのような気がした。

 

凛花は、そっとその猫の横に座る。すると、その猫がごろごろと凛花の膝にすり寄って来るではないか。それが余りにも愛らしくて、思わず笑みが零れた。

 

「あなた、何処の子なの?」

 

そう言って、猫に話しかけながら頭を撫でる。よくよく見ると、その猫は碧い瞳をしていた。白い毛並みに碧色の瞳――そう、まるで五条の様な色だった。

そんな事を思ってしまって、つい、くすりと笑ってしまう。凛花は猫を撫でながら、持っていたお昼ご飯の包みを広げた。今日は、サンドイッチだ。

てり焼きチキンとたまごのサンドや、レタスとアボカドのサンド、そして、ハムとチーズのサンドや、苺と生クリームたっぷりのフルーツサンドなどを作って持ってきた。普段の食事は家の料理人が作るが、お弁当用だけは、自分で作る様にしている。

 

「あなた、五条さんにそっくりね。食べる?」

 

そう言って、凛花がサンドイッチをちぎって猫の前に差し出すと、猫は「にゃ~」と鳴きながら、あむっと凛花の手の中のサンドイッチを食べた。それがくすぐったくて、凛花はまた笑ってしまった。

さぁ……と、心地の良い風が吹き、凛花の髪を揺らした。ふと、脳裏の先日の五条とのやり取りが思い出された。突然抱き寄せられたことや、ふいっと顔を赤らめてそっぽを向かれた事……。今思えば、変な人だったな、と思ってしまうが――。

 

「嫌……では無かったのよ、ね……」

 

そう――初対面な筈なのに、嫌では無かった。不思議と不快感はなく、むしろ心地よいとさえ思ってしまった。おかしな話だ。

 

私、どうかしてしまったのかしら……。

 

知らず、顔がほのかに赤くなる。凛花はそれに気付かない振りをして、そっとその猫を抱きあげた。

 

「あなたは、五条さんの事どう思う?」

 

そう猫に尋ねる。すると、猫は「にゃ~?」と首を傾げてその碧い瞳をぱちぱちとさせた。と、その時だった。

 

 

 

「俺が何だって?」

 

 

 

「……え?」

 

不意に、頭上から聞こえてきた声に、凛花がその深紅の瞳を瞬かせた。一瞬、気のせい? と思ってしまう。今、五条の声が聞こえた気がしたからだ。しかし、ここは学院内で、一般男子の立ち入りは基本禁止だ。そもそも、五条がいる筈がない。

 

そう――いる筈がない、のに……。

 

「ご、ご、五条さん……?」

 

何故か、顔を上げると目の前にいつもの黒いスーツを着た五条がいた。どうして!? と思う前に、頭がパニックになる。

 

「え、あの……な、んで……」

 

凛花がカタコトになって口をぱくぱくさせていていると、五条は「ははっ」と笑いながら、

 

「ん? あ~この近くの建物で撮影してたんだよな。今は休憩中。で、散歩がてら散策してたら、この学校見つけてよ、裏門開いてたからちょっと侵入」

 

「いえ、あの……侵入って……」

 

したら駄目だろう! と突っ込みたいのに、何処から突っ込んでいいのか分からない。すると、五条はけろっとした顔で、

 

「丁度昼寝に良さそうな場所だなって思ったら、凛花がいてびっくりだよ。っしかも、ぷっ、くく……っ、猫に俺の事相談してるし……っ」

 

「……っ」

 

ぜ、全部見られていた……っ!!

 

瞬間、かぁ……っと、凛花の顔が真っ赤になった。慌てて五条から視線を逸らすと、両手で熱くなった頬を抑える。

 

「わ、忘れて下さい……っ」

 

恥ずかしい……っ! 恥ずかし過ぎて、穴があったら入りたいぐらいた。

すると、五条が嬉しそうに笑った。そして、凛花の頭をわしゃっと撫でてくる。その瞳はとても優しげで、まるで愛しいものを見るかのようだった。

きゅん……と、凛花の胸が小さく鳴る。そして、訳の分からない気恥ずかしさが襲ってくる。

何故、そんな優しい瞳で見てくるのか。

どうして、そんなに愛おしそうに頭を撫でてくれるのか――。

 

「あ、の……」

 

知らず、どんどん紅潮していく顔に耐えかねて、凛花が言葉を発しようとした時だった。ふと、五条が目ざとく凛花の膝の上にある、サンドイッチを見つけた。

 

「お、美味そうじゃん」

 

「え? あ……」

 

一瞬、何の話かと思ったが、五条の視線の先が、自分の膝の上のサンドイッチに向けられている事に気付き、凛花は一度だけその深紅の瞳を瞬かせた後、

 

「あの、食べられます……か?」

 

そう言って、勧めてみた。すると、五条がまた嬉しそうに笑って、

 

「マジで!? なら、この苺と生クリームのやつくれよ!」

 

そう言って、フルーツサンドを指さした。てっきり男性ならがっつり系にいくかと思ったので、少し意外だなと感じつつ、凛花はナプキンでフルーツサンドを掴むと、そっと五条の方へと差し出した。

 

「どうぞ」

 

そう言って、五条に渡そうとしたが――。何故か、五条に凛花の手ごと掴まれたかと思うと、そのまま……。

 

ぱくり。

 

「え……」

 

「んん~ウマ! なんだこれ、めっちゃウマいんだけど!? 甘さも超俺好み! もしかして凛花の手作り?!」

 

「え……、そう、ですけど……」

 

「マジか~こんな美味いの食えるやつ幸せだな! なぁ、明日も近くで撮影あるんだけど、また作って来てくんねぇ?」

 

「そ、れは……構いませんけれど……。じゃなくて! じ、自分で食べて下さい……っ!」

 

何故、凛花の手から食べるのか。最早何処から突っ込んでいいのか分からなかった。だが、五条はけろっとしたまま、ぺろりと唇を舌で舐めると、

 

「いいだろ、別に。凛花の手作りなんて、超レアだし。あ、でも、俺の分も作ってくれんなら、俺が金出すけど?」

 

そう言ってきた。だが、それは何だか違う気がするし、そもそもお金の問題ではない。凛花は慌てて首を横に振ると、ぐいっと持っていた五条の食べかけのフルーツサンドを彼に押し付けた。

 

「も、もう! とにかく、残りは自分で食べて下さい……っ。後、お金は要りません」

 

このままでは、心臓がもたない。凛花は残りのサンドイッチを包むと、早々にこの場を去ろうと、慌てて立ち上がった。そして、五条に背を向けるが――。

 

「……っ、凛花……!」

 

不意に、名を呼ばれたかと思うと、五条に手を掴まれた。そして、そのままぐいっと引っ張られ――気が付けば、彼に後ろから抱き締められていたのだ。

 

「……っ」

 

かぁっと、一気に身体が熱くなる。どくん、どくん、と心臓の音が煩いほど聞こえてくる。なのに、何故か五条の腕は心地良くて――凛花は思わず身体を硬直させてしまった。

 

「あ、の……っ」

 

やっとの思いで、そう口に仕掛けたが、五条がそっと耳元で囁くように、

 

「……まだ、行くなよ」

 

「……っ」

 

五条の甘い声が、耳からダイレクトに伝わってきて、凛花がぴくっと身体を震わせた。それと同時に、ぎゅっと五条の腕に力が籠もる。

 

「なぁ、凛花。……俺の事、嫌い? 一緒にいたくない?」

 

そんな聞き方、卑怯だと思った。嫌だなんで、言える訳がない。むしろ、彼と一緒にいるのは、心地良いとさえ思っていたのに――。けれど……。

 

「……い、嫌じゃ……ない、です……から、離し……て……っ」

 

そんな事、言える筈もなく……、凛花は ばくばくと鳴り響く心臓の音を聞かれたくなくて、何とかそう答えるので、精一杯だった。

だが、五条の抱き締める手に何故か更に力を籠められた。

 

そして、ほっとした様に彼がとん……っと凛花の肩に顔を埋めてくる。

 

「……よかったぁ……。俺、オマエにだけは嫌われたくねぇ……」

 

え……?

一瞬、言われた意味が分からず、凛花が振り返り掛けたその時だった。

 

「誰か、そこにいるのですか?」

 

不意に、向こうの方から助教授の声が聞こえてきて、凛花がはっとした。慌てて振り返ると、五条をぐいっと後ろへ押した。

 

「ご、五条さん隠れて下さい!」

 

「は?」

 

「は? ではなく、隠れて!!」

 

そう言って、ぐいぐいと五条の背中を押す。何故急に隠れろと言われるのか分からない五条は、首を傾げたまま「お、おい」と声を上げていた。

そうこうしている内に、どんどん助教授の気配が近くなる。

 

「ここは、女子校なんですよ?! 教授たち以外の男性がいたらいけないんです……っ」

 

なんとかそう説明すると、やっと納得いったのか、五条が「ちっ」と軽く舌打ちをした後、何故か凛花の肩をぐいっと抱き寄せ――。

 

「こっちだ」

 

「え……っ」

 

そのまま、ぐいっと凛花の身体を横抱きにすると、近くの木陰に隠れたのだ。驚いたのは、他ならぬ凛花だ。五条1人で隠れればいいものを、何故自分まで一緒に隠れなければならないのか……。訳が分からなくて、凛花がおろおろしていると、

 

「あら、猫じゃない」

 

現れた助教授が、その場に残っていた猫を見つけて頭を撫でていた。

だが、凛花はそれ所ではなかった。五条に密着する形で隠れている所為か、心臓が早鐘のように鳴り響き、五条に聞こえてしまいそうで、気が気でなかった。

ただ、このままではいけないと分かっているが、離れる事が出来ない。どうしていいか分からず、凛花が硬直していると――。

 

「凛花、大丈夫だって」

 

不意に、小さな声で五条がそう言ってくれた。ただそう言われただけなのに、不思議と身体の緊張が解けていく。安心するような、この人なら大丈夫と思わせてくれるような、そんな感覚だった。

 

ちらりと、助教授の方を見ると、何故かまだあの猫と戯れている。早く去って欲しいのに、去ってくれる気配がまるでない。

 

「私が出て助教授の気を逸らさせますので、五条さんは――」

 

そう言って、五条の方に顔を上げたその時だった。

 

「……っ」

 

五条の顔がキスが出来そうなほど至近距離にあって、凛花は言葉を失ってしまった。それは五条も同じだったらしく、息を吞む気配が伝わって来た。

 

「あ……」

 

次第に、顔が赤くなっていくのが自分でも良く分かった。かといって、ここで慌てて離れては助教授に気付かれてしまう。離れるに離れられなくて、凛花が身体を再び強張らせていると――ふと、五条の手が凛花の柔らかな髪に触れてきた。

 

どきん……と、心臓が大きく鳴る。目が――五条の美しい碧色の瞳から離せない。

 

「五条さ……」

 

「凛花――嫌なら、言えよ」

 

そう言われたかと思うと、そっと五条の顔が近づいてきて……、ちゅ……と、小さな音を立てて、凛花の唇に五条の唇が重なった。

 

瞬間、時が止まった気がした。

 

ただ、触れるだけの優しいキス。けれど、その柔らかさがとても心地よくて――そして、何故か泣きたくなるほど胸が締め付けられる感覚に陥った。

 

「ご、じょう……さ、ん……?」

 

凛花が、驚いた様にその瞳を見開く。すると、少し頬を染めた五条がふっと笑った。どきん……と、胸が再び高鳴った気がした。

 

何故か、五条の顔を見ている事が出来なくて、凛花が視線を逸らそうとした時だった。不意に、五条の大きな手が頬に触れてくる。そのまま、優しく撫でられて――。

 

「凛花――」

 

そう甘く名を呼ばれたかと思うと、もう一度唇が重なった。今度は先程とは、違い深く口付けられた。そのキスの甘さに、思わずくらっとしてしまう。だが、不思議と嫌ではなくて……寧ろ心地良くて……。

 

凛花が、堪らず五条のジャケットを握り締めた。すると、五条の手が凛花の腰を掻き抱く。そして、そのまま何度目か分からない、優しいキスをされた。

 

 

 

どのくらい、キスを交わしていただろうか。やがて、ゆっくりと五条の唇が凛花の唇から離れた。そして、こつんと五条と額が合わさる。

その近すぎる距離に、また心臓が高鳴った。だが、何故か離れたくないとも思ってしまう。そんな自分に戸惑いつつ……凛花がそっと視線を上げると――目の前に、とても美しい碧色の瞳があった。

 

その瞳が優しく細められて、まるで愛おしいものを見るかのように見つめられている事に気付き、かぁぁぁっと知らず顔が赤くなっていく。

そんな凛花を見て、五条がくすっと笑いながら、

 

「すげー可愛い」

 

そう言って、再び五条の顔が近づいてくると、今度は凛花の頬にキスを落としてきた。その優しい仕草に、思わず胸が高鳴り……同時に、とても幸せな気持ちになってきて……凛花は、自分で自分の気持ちが分からくなっていた。

 

そうこうしている内に、助教授が猫を連れて去っていった。それを見届けてから、2人はそっと木陰から出る。

五条は隠れていた事から解放されたことに、ぐぐっと背伸びをしている。が、凛花がそれ所ではなかった。

 

まさかの五条とのキスに、今頃になって心臓がばくばくいっている。顔が火照って、まともに五条を見る事が出来ない。と、その時だった。

 

「あ、やべぇ。そろそろ戻んねぇと、傑にどやされる」

 

「え……? あ……」

 

腕時計を見てそう言う彼に、凛花が少しだけ視線を落とした。そうだ、彼は仕事で近くに来ていただけなのだ。ここに来たのも、偶然で、凛花に逢う為ではない――そう思うと、なんだか、ちくんっと胸のあたりが痛んだ。

そんな凛花を知って知らでか、五条はふっと笑みを零すと、ぽんっと凛花の頭を撫でた。

 

「そんな顔すんなって、また来るからよ」

 

そう言って、にっと笑った五条の顔はとても優しくて……凛花は、無意識に頷き返していた。

 

 

そして、彼が去った後――。

凛花は自分の唇に触れると、そっとその唇を指でなぞった。まだ、五条の温もりが残っているような気がして……胸がきゅっとなる。それと同時に、何故か堪らなく泣きたい気分になった。

 

だが、そんな自分に驚きつつ、凛花はきゅっと胸の前で両手を握りしめたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.02.04