紅夜煉抄 ~久遠の標~

 

 第2話 -人鬼- 5 

 

 

―――旧市街・古城宿 見狼館 別室

 

 

「す――、す――」

 

朝も早い事もあり、信乃はまだベッドの中で熟睡していた。

先ほど、荘介がなんか散歩か何かに行くと言っていた気がするが……。

寝ぼけながら返事をしたせいか、よく覚えていない。

 

「んん――」

 

信乃が寝返りをうった時だった。

 

背後で何かが動く気配を感じた。

荘介でも戻ってきたのかと思い、信乃はそのまま寝に入る。

が……。

 

突然、ぬっと何かがベッドの方をカーテンの隙間をぬって覗き込んできた。

 

「……?」

 

荘介かと思って、もそりと振り返ると――。

 

「……なっ……!?」

 

そこには白くて巨大な犬……いや、犬神がいた。

犬神の大きな青い瞳が信乃を捕らえる。

信乃は半分呆気に取られたように、その犬神を見た。

 

「でっかぁ……」

 

犬好きの性か。

「触れてみたい」という衝動に駆られた。

 

信乃は息を呑むと、ゆっくりとその犬神の方に手を伸ばし掛けたが―――。

 

不意にその犬神が威嚇する様に、口を大きく開けて吠えた。

瞬間、ぶおお!っと、突風が信乃に襲い掛かかる。

 

「わっ……!」

 

突然の威嚇に、信乃が思わず後ろへ倒れそうになる。

と、その時だった。

 

 

「むやみに八房に触れるな。お前の犬と違って温厚ではない」

 

 

はっとして声のした方を見ると――。

そこには、いつの間に入ってきたのか里見莉芳がいた。

 

八房と呼ばれた犬神が、莉芳を護るかのように彼の周りをゆっくりと歩く。

それを見て、なんだかむかついたのか……。

 

「なんだよ、ケチ……」

 

信乃が、ぽつりと不服そうにぼやく。

そんな信乃を知って知らでか、八房は莉芳の背後に回ると、すぅ……とその姿を消した。

 

 

「……5年ぶりだな、里見」

 

 

信乃が、真っ直ぐに莉芳を見てそう言う。

その言葉に、莉芳は一度だけその瞳を瞬かせた後、

 

「……覚えていたか。荘介は忘れているようだが」

 

莉芳のその言葉に、信乃が小さく息を吐くと、もそりと起き上がった。

 

「あいつは、あの時・・・の事は、殆ど覚えていない。――それで? 俺らをこんなトコに呼んだワケは?」

 

「……別に、私が呼んだ訳ではない」

 

「同じだよ。浜路まで人質に取りやがって、何考えてんだ? お前ら」

 

「それは、尾崎に言え」

 

瞬間、信乃の瞳が鋭く光る。

 

 

 

「――でも、あんたは動いた」

 

 

 

あの日・・・から、5年の間。ただの一度たりとも動こうとしなかったあんたが、教会のヤツラを押し退けてまで、俺らを迎えに来た。――真夜まで使ってな。それは 『約束の日』が来たってことだろう?」

 

「……」

 

莉芳は何も答えなかった。

沈黙が部屋に流れる。

 

どのくらいそうしていただろうか。

おそらく時間としてはほんの数秒――だが、信乃には酷く長く感じた。

 

ふいに、はたっとある事に気付き、慌てて立ち上がる。

 

「そうだ! 真夜は!? 真夜は無事なのか!!?」

 

突然、叫び出した信乃に、一瞬莉芳が大きくその瞳を見開くが――。

小さく息を吐くと、

 

「……安心しろ、真夜は無事だ」

 

「……っ、俺、行ってくる!!」

 

そう言って、信乃が扉に向かって駆けだしたが――突然、八房が姿を現したかと思うと、信乃の前に立ちはだかって威嚇してきた。

 

「……なっ」

 

犬は大好きだが、八房に触れない信乃は一瞬たじろぐ。

 

「おい、里見! こいつどかせ―――」

 

 

 

「……何処へ行く」

 

 

 

一等低い声が部屋の中に響いた。

だが、そんな事でひるむ信乃ではなかった。

逆に、むっとして、

 

「何処って、真夜の所に決まってんだろ!?」

 

そう叫んだ瞬間――八房が「ぐるるるる」っと唸った。

威嚇してくる八房に、信乃が「う……」と押し黙りそうになる。

だが、信乃は大きな声で、

 

「こ、怖くなんてねーからな! 俺、大犬好きだもん!!」

 

そう言って、八房の横を通り過ぎようとするが――。

瞬間、八房が先ほどの様にその大きな口を開けて吠えた。

 

「わっ……!」

 

突然の八房の咆哮に、信乃の小さな身体がよろめく。

完全に扉の前に陣取った八房に、信乃が暴れる様に、

 

「……だよ! 邪魔すんなって!!」

 

そう叫ぶが、八房はふいっとそっぽを向いて、まるで扉を封鎖するかの如く、その前に丸くなって座ってしまった。

 

「おい! そこに座んなよ!! 里見!! こいつなんとか――」

 

 

 

「―――信乃」

 

 

 

今までにないくらい低い声で、莉芳がその名を口にした。

一瞬、信乃がぎくりと身体を強張らせる。

 

莉芳から放たれるオーラが、今までのとは段違いに冷たく感じた。

まるで、絶対零度の空間にいるような気分だ。

 

「真夜は、今休んでいる。彼女の邪魔をするならば、お前とて――」

 

「……はっ」

 

瞬間、信乃が面白いものでも見たかのように笑った

 

「“お前とて――”、何? それで、俺が止められるとでも?」

 

そう言って、寝間着の隙間から見える右手の紋様が広がっていく。

 

「――らしくねーじゃん、アンタ。真夜の事になると、こんなに過敏に反応するなんてさ」

 

そう言った信乃の右手の甲から、ぎょろりと赤い目が浮かび上がる。

 

「アンタ、真夜の何? そもそもなんでアンタが真夜の傍にいるわけ? 俺達の・・・真夜になにをした」

 

びきびきびきっと、赤い目を中心に信乃の手の甲に亀裂が入っていく。

それを見た、莉芳は冷たくその灰青の瞳を細め、

 

「……“村雨”か。まさか、代償がこれ・・とはな。本部の年寄り共がこぞって興味を示すわけだ」

 

「は? 代償?」

 

「……子供のまま年を取らないとは」

 

そう言って、一歩莉芳が前に歩を進めた。

 

「“村雨”に関しては、まだ誰も正体を知らない。謎に包まれた妖刀だ。ある者は『神』だと答え、ある者は『妖』だと言い、ある者は『厄災』や『呪い』だと言う。あらゆる魔を裂き、あらゆる妖を平伏させ、地上の形のないもの全てを従える」

 

「……」

 

「しかし、“村雨”を手にした者は力を得る代わりに、大きな“代償”を払う。成長を止めたお前の身体も、おそらく――。最期は寿命をまっとうする所か。酷い死に様だそうだ。――所詮、人の身で『神』を飼うなどおこがましいという事だろう」

 

「――アンタ、だから5年も放っておいたって訳? どうせ放っておいても俺がすぐ死ぬって思ってた? 今まで奴らの様に喰われて死んでるとでも?」

 

はっと、信乃が笑った。

 

 

 

「―――悪かったなぁ。この通りピンピンしてるぜ。俺も、村雨もな!」

 

 

 

瞬間、信乃の纏う空気が一変する。

右手の甲からのぞかせているぎょろりとした赤い目に力が集中していと―――。

 

手の甲から、ギギギギギギギという鳴き声と共に、村雨が喰い破るようにその姿を露にした。

刹那、それまでぴくりとも動かなかった八房が、莉芳の後ろに姿を現す。

 

「で? 本題に入ろうじゃん。結局、アンタが真夜を使ってまで俺らをここに呼び寄せたのは、あの時の借り・・・・・・を返せって事?」

 

「……」

 

 

 

一触即発―――。

 

 

 

少しでも気を許せば、それは隙を見せるも同じ。

それが分かっているのか、莉芳も、信乃もにらみ合ったまま一歩も動かなかった。

 

このままずっと睨み合いが続く―――。

そう思われた時だった。

 

不意に、扉が、がちゃりと開く。

 

「……?」

 

開けたのは、朝食を持ってきた荘介だった。

一瞬、荘介が信乃と莉芳を見るが、何事も無かったかの様に笑うと、

 

「おはようございます。朝っぱらから妖怪絵巻ですか? 帝都の三面記事のびっくりですね」

 

「……」

 

「……」

 

 

あれだけピリピリしていた緊張感が一気に抜けたのは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ****    ****

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――旧市街・古城宿 見狼館 別室・テラス

 

 

「お前たちの幼馴染は、神家の屋敷にいる。食事が済んだらすぐ向かう」

 

莉芳が椅子に腰かけそう言うが……、信乃は、聞いているのか聞いていないのか、完全にスルーして、もごもごと不貞腐れた様な顔をしながら、荘介が運んできた朝食を口に運んでいた。

合間に、肩に乗っている村雨がパンをかじっている。

 

「信乃、行儀が悪いですよ。寝間着のままで――」

 

そう荘介が注意するが、当の本人は むっすーとしたまま、

 

「いーよ、別に。誰も見てないし」

 

「……里見さんが、いるでしょう?」

 

「俺には、なーんも見えないな!」

 

そう言い張る信乃を見て、莉芳が小さく息を吐いた。

そして、

 

「……子供ガキだな」

 

子供ガキ言うな!!」

 

「村雨の呪いは外見だけじゃなかったか」

 

その言葉に、流石の信乃もかっちーんと来たのか……。

がたんっと立ち上がり、莉芳を指さしながら、

 

「大体、テメーこそ何だよ!? 5年前とちっとも外見変わってねーじゃん!! 性格悪ぃのも相変わらずだよな!! 変わってねーのは、お互いサマだっつーの!! アンタこその化け物並――もご!!」

 

そこまで言いかけたが、瞬時に荘介が信乃の口を手で塞いだ。

 

「もごもご!!!」

 

信乃が何やら抗議しているが、荘介はそれをさらっと流しながら、

 

「すみません。再教育しておきますので」

 

その時だった。

 

「莉芳? そこにいるの?」

 

不意に、扉の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてきた。

莉芳がそれに反応して、立ち上がろうとした瞬間――。

 

 

「真夜!!!」

 

 

先に反応したのは、信乃だった。

がたんっと、立ち上がり扉の方へ駆けていく。

 

「信乃! まだ食事中――」

 

荘介がそう言い掛けたが、仕方なさそうに小さく息を吐いた。

 

「……アレ・・は、いつもこうなのか?」

 

莉芳が半ば呆れた様にそう洩らした。

すると、荘介は苦笑いを浮かべて、

 

「昔っから、人の言う事なんか聞きませんからねえ」

 

そう言いながら、扉の方を見る。

そんな事を言われているとは露にも思わない信乃は、嬉しそうに扉を開けると、真夜の手を引いてテラスの方にやってきた。

 

いつもは絶対にしないのに、真夜の為に椅子を引く。

真夜は「ありがとう」と応えて、その椅子に座った。

 

「もう、大丈夫なのか? 朝飯は? 食った?」

 

次から次へと飛んでくる質問に、真夜はくすくすと笑みを浮かべながら、

 

「大丈夫よ、信乃。心配かけてごめんね? 朝食はまだだけれど――」

 

「なら、ここで一緒に食べよ!」

 

そう言って、荘介を見る。

それに気づいた荘介が「はいはい」という風に、笑うと、

 

「では、もう一人分お願いしてきますね」

 

そう言って、部屋を出ていく。

真夜が来てから、信乃は先程とはうって変わって上機嫌だった。

 

そうこうしている内に、荘介が真夜の分を持って帰ってくる。

 

「ありがとう、荘介」

 

そう言って、荘介が運んできた食事をゆっくりと食べ始める。

そんな真夜の様子を信乃はにこにこと笑いながら見ていた。

 

「そういえば、今日は着物ではないのですね」

 

荘介の何気ない言葉に、一瞬真夜が咽る。

 

「真夜? 大丈夫ですか?」

 

荘介が心配そうにそう尋ねてくるが、真夜は小さく手を上げて大丈夫だと合図を送った。

 

「それは――その……」

 

そこまで言い掛けて、真夜がちらりと莉芳を見た。

それに気づいた莉芳だが、ふっと微かに笑みを浮かべるだけで、何も言わなかった。

完全に面白がっている。

 

真夜は、苦笑いを浮かべながら、

 

「た、たまにはお洋服でも悪くないかと思って……」

 

「あ……」

 

そこで、ふと荘介はある事に気付いてしまった。

 

そうだ、昨夜――。

信乃は寝ていたから経緯を知らないが、あの時莉芳は確かに、

 

『今から、真夜を抱く』

 

そう言っていた。

つまり、真夜と莉芳は昨夜―――。

 

「……」

 

知らず考え込んでいた荘介に、信乃が不思議そうに、

 

「荘? なんか、顔が赤いぞ?」

 

「え……、あ、ああ、いえ、少し暑いので……」

 

なんとかそう言って誤魔化す。

まさか、昨夜の莉芳と真夜のやり取りを想像して赤くなったなど、絶対に言えなかった。

だが、案の定信乃はまったく気付かずに、

 

「そうか? ん、あれ? 真夜、首のとこ……」

 

「え?」

 

慌てて真夜が首を抑える。

 

「あ、違う、逆。なんか赤くなって――」

 

瞬間、ばっと真夜が顔を赤くしてその首元を手で隠した。

 

「真夜?」

 

余りにも挙動不審だった真夜に、信乃が首を傾げる。

真夜は、なんとか笑顔を取り繕うと、

 

「あ、えっと……虫。そう、虫に刺されただけだから――」

 

真夜がそう言った瞬間、隣に座っていた莉芳がくつくつと笑いだした。

 

「り、莉芳!! 笑い事じゃないわ!!」

 

「いや、面白くてな。そうか、“虫”か……。まぁ、まだ子供には早い話だったな」

 

莉芳のその言葉に、真夜がますます顔を赤くする。

見ると、荘介も少し頬を赤らめたまま余所を向いている。

 

唯一理由を知らない信乃は、三人のやり取りの意味が分からず、首を傾げた。

 

と、その時だった。

ふと、莉芳の横に座っていた八房が荘介の足下にすり寄ってきた。

 

荘介は、それを見てふっと笑うとしゃがみ、八房の頭をゆっくりと撫でる。

すると八房は気持ちがいいのか、嬉しそうにしていた。

 

「……そ、荘介……?」

 

その様子を見て信乃が、信じられないものを見たかのように、ぷるぷると震え始めた。

だが、当の本人はきょとんとして、

 

「ん……? なんです?」

 

そう言って、八房の頭に手を乗せている。

が……次の瞬間、

 

 

 

 

「うわ―――っ!! 荘介ばっかなでなでしてズリ―――!!!」

 

 

 

 

「……ハ? だから一体何が……」

 

 

「うわああああああん!!! 荘のバカ――――――!!!(号泣)」

 

 

と、マジ泣きしながら、信乃がそう吐き捨てるとテラスを飛び出した。

 

「ちょ……っ。信乃!? 待って、信乃!!」

 

逃げる様に飛び出した信乃を、真夜が慌てて追い掛ける。

 

取り残された荘介と莉芳だが、荘介が、何故信乃がああなったのか意味が分からず、「どうしたんでしょうね?」と言いながら首を傾げていた。

それを見た莉芳は、小さく溜息を洩らし、

 

「……まったく……子供ガキだな」

 

そうぼやいた。

 

「あ、所で先ほど信乃と――」

 

ふと、思いだしたかのように荘介がそう口にしかけた。

が……莉芳を見ていたら、何故か聞いては行けないことの様な気がして、

 

「いえ……なんでもありません」

 

そう言って、口を紡ぐしかなかったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新:2025.05.18

旧:2022.07.05