Reine weiße Blumen
-Die weiße Rose singt Liebe-
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◆ 1章 前奏曲-volspiel- 25
「……ん……っ」
ぴくっと、微かにあやねの身体が震えた。ゆっくりと閉じられた海色の瞳から、一滴の涙が零れ落ちる。それでも、その手は楽の背に回したままで、ぎゅっと楽の上着を握り締めていた。
「……は」
一度、唇を離し吐息を洩らすと、あやねの瞳と目が合った。彼女の美しい海色の瞳は、とても綺麗で、そしてその瞳には自分が写っていた。それが酷く嬉しく感じ、楽は彼女の涙を指で拭うと、再び口付けた。
二度、三度と繰り返すうちに、次第に口付けが深くなっていく。あやねが時折零す吐息が、それを余計に加速させていった。
「あやね……」
彼女が愛おしくて堪らない。こうして触れているだけで、その想いがどんどん強くなっていく。彼女のキャラメルブロンドの髪に指を絡め、更にぐっと引き寄せると、彼女がぴくんっと、肩を震わせた。瞬間ぱさりと、彼女が羽織っていたショールが床に落ちる。
「……ぁ、ン……が、くさ……っ」
ぎゅっと、上着を握っているあやねの手に力が籠もる。それでも、楽は口付けをやめる事が出来なかった。
もっと、触れていたくて。もっと、こうしていたくて。止められない――。
このまま時間が止まればいいのにとさえ思ってしまう程に……。
どのくらいそうしていたのだろうか。名残惜しそうに楽が唇を離すと、あやねがゆっくりと目を開けた。その瞳はとろんっとしていて、ほのかに朱に染まった彼女の頬を見た瞬間、楽は思わず息を吞んだ。
――耐えろ、俺!!
うっかり、このまま押し倒したくなる衝動を堪える様に、楽は自身の顔を手で押さえた。これ以上は駄目だと、自分自身に言い聞かす。
自覚はある。かなり離れ難くて、止められなくて、何度も彼女に口付けてしまった。しかし、ここは、自分のマンションでも、外でもない。白閖邸の、しかもあやねの部屋の中なのだ。ここに楽がいる事は、あやねの父・秋良も周知の事実で、もし、ここで手を出せば、俺は終わる……っ!!
そんな楽の自問自答を知らないあやねは、少し恥ずかしそうに頬を染めながら、
「あ、あの……楽さん、その……手を……」
「ん?」
手?
と、楽がはたっと我に返る。楽の手はあやねを抱き締めたままだったのだ。
「わ、悪い……っ」
はっとして、楽が慌てて手を離す。すると、あやねは顔を朱に染めたまま、顔に手を当てて恥ずかしそうに俯いてしまった。
そんな仕草があまりにも可愛らしくて、思わずまた抱き寄せたくなる衝動を楽は必死に耐えた。そして、落ちたショールを拾うと、あやねの肩に掛けてやる。
「……あ……ありがとう、ございま、す……」
そう言ったあやねの頬は、まだ朱に染まったままだった。それを誤魔化すかのようにあやねがショールを手繰り寄せる。
と、その時だった。ふと、何かを思い出したかのように、あやねが「あ……」と声を洩らした。
「あ、あの……っ、私、楽さんにお返ししないといけない品があるのです」
「うん?」
何だ? 何かあったか?
と、楽が首を捻っている時だった。あやねが奥の棚から何かの入った紙袋を抱えて戻って来た。そして、それを楽に差す出す。
「……先日、お借りした上着です。洗ってありますので――ありがとうございました」
そこまで言われて思い出した。それは、秋良が八乙女事務所に来た日に、あやねの肩に掛けてやった上着だった。楽が紙袋の中を見ると、上着と一緒にもう一つ。何か、包みが入っていた。
何だ?
そう思って、それを取り出すと、あやねが「あ……」と声を洩らした。それは、可愛くラッピングされたバウンドケーキだった。それを見たあやねが、慌てて顔を真っ赤にして、口を開く。
「あ、あの……そ、それは――その、う、上手く出来ているか分かりませんが……」
その言葉で気付いた。もしかして……、
「あやねが?」
そう尋ねると、あやねがますます顔を赤く染めながら、小さく頷いた。
「その……、お礼をどうしたらいいか穂波に聞いたら、手作りの菓子はどうかと言われて、それで――」
作ってくれたというのか。あやねが自分の為に。そう思うと、胸の奥から嬉しさが込み上げてきた。というか、めちゃくちゃ嬉しくて、思わず顔がにやけそうになる。
「礼なんてよかったのに……でも、サンキューな。凄く嬉しいよ」
楽のその言葉に、あやねがほっとしたように、やっと笑みを浮かべる。そんなあやねを見ていたら、また抱き締めたい衝動に駆られたが、楽はそれをぐっと堪えた。
と、あやねが何かに気付いたかのように、
「あ、すみません。何もお出しせずにずっと立たせたままで――直ぐに、別室にお茶を……」
と言って、メイドを呼ぶ呼び鈴を鳴らそうとした。が、楽がそれを遮るかのように、「あやね……っ」と、あやねの名を呼びながら手を取った。突然手を取られたあやねは、少し驚いた様に、その海色の瞳を瞬かせた。
「楽さん?」
「あ、あーえっと、じ、実はさっきの話には続きがあって、その件で今日はここに通して貰ったんだ」
「え?」
一瞬、あやねが大きくその瞳を見開く。先程の話というと、高嶺家と映画の話だろうか? そう思って、あやねは少し考えた後、呼び鈴から手を離すと、楽の上着の袖を取った。あやねのその行動に驚いたのは、他ならぬ楽だ。「え……っ」と思うが、あやねは軽くだけその袖を引っ張って、ぱっと離した。
「あ……その、やはり立ち話もなんですから、こちらへ――」
そう言って歩き出す。そして、何故かベッドの方へ案内されたのだ。ぎょっとしたのは楽だ。だが、あやねはその事に気付いてないらしく、ベッドサイドへ座ると、隣にも座るように促してきたのだ。
いや、いやいやいや、駄目だろう!?
と、楽が動揺するが、あやねはやはり気付いていないのか、座らずに立ちつくしている楽を見て、首を傾げた。しかし、楽はそれどころではなかった。心臓がばくばく煩いぐらい鳴り響き、全身に緊張が走る。
いや、そもそも、こんな時間に惚れた女の部屋に入る事自体、ヤバいというのに。しかもその上、ベッドサイドに座れとか……どれだけ試されているんだ!? という気分だ。
しかも、あやねには全く悪気はなさそうで、純粋無垢な瞳で見てくる。
「楽さん?」
あやねが、不思議そうに小首を傾げる。その仕草が余りにも可愛くて、楽は頭を抱えた。
しかし、座らねば話が進まない。楽は意を決して、あやねの隣に座った。少し距離を空けて……。
「それで、続きのお話とは……」
と、あやねから話を切り出してくれたので、楽はごくりと息を吞みながら、「何の為にここに来たのか」と、自分に言い聞かせる。それから、ゆっくりと口を開いた。
「その、さっき俺が撮影してる映画に、“高嶺家”が関わってこようとしてるって話しただろう?」
「はい……スポンサーに名乗り出ようとしてそうだと。私は業界の事は詳しくはありませんが、高嶺様が楽さんの傍にいる為に、お家の力を使おうとしているのは、理解出来ました」
それだけだったら、まだ対処出来た。楽のストレスはフルになるが、高嶺陽子を相手にしなければいいだけの話だ。楽が耐えれば、何とかなる話だった。だが、一番の問題はそこじゃない。重要なのは――。
「スポンサーに名乗り出るのが駄目って訳じゃない。問題は圧力を掛けて映画を自分達の思い通りにしようとしてるって事と、後……」
「……」
「“ましろ”役。まだ決まってないって言ったよな? あの役を、高嶺のお嬢さんにしろって圧が掛かり始めてて……」
「え……」
流石のあやねもその話には驚いた様で、その海色の瞳を大きく見開いた。確か、あやねの知る限りあの映画のヒロイン“ましろ”役は、以前監督と話した時も思ったが、監督なりにこだわりのある役のように思えたし、それに台本を見る限り、とても重要な役に思えた。
その役を高嶺様が……?
なんだか、イメージと異なっていて、いまいちピンとこないが……、楽のこの反応からすると、恐らく楽も反対派なのだろう。それか、既に他の人に打診中なのかもしれない。もしそうなら、陽子にさせろという圧力は、制作側からすると、困った案件なのは容易に想像付いた。
「その……、差し障りなければで宜しいのですが、もしかしてどなたかにお話を通されている最中なのですか? だから、高嶺様の申し出は困る――という事でしょうか」
「まだ打診はしてない。でも――」
そこまで言い掛けて、楽はあやねを見た。その灰青の瞳が真っ直ぐにあやねを見つめてくる。
「――“ましろ”のイメージに合う子は見つけてる」
え……。
一瞬、どきっとあやねの心臓が跳ねた。
「監督も、俺も、“ましろ”はその子にやって欲しいと思っているんだ」
「……あ、そう、なんです、ね……」
自分に言われた訳でもないのに、声が震える。何故だろうか、楽から目が――離せない。その時だった。すっと楽の手が伸びてきたかと思うと、あやねのキャラメルブロンドの髪に触れた。そしてそのまま指を絡めてくると、その手が頬を優しく撫でる。
「……っ」
かぁ……っと知らず、あやねの頬が紅潮していった。
「あ、の……楽さ……」
堪らず、あやねが言葉を発しようとした時だった。
「お前だよ」
「え……?」
「あやね――俺達はお前に“ましろ”役をやって欲しいと思ってるんだ」
一瞬、あやねは言葉を失った。彼は今何と言っただろうか……。あやねに“ましろ”役をして欲しいと、そう……言わなかっただろうか。
「……あの、それはどういう――」
「俺も、監督も、お前となら最高の映画に出来ると思ってる。……いや、あやねじゃないと駄目なんだ」
「あの……私は……」
「あやね――お願いだ。この大役を、引き受けて欲しい」
「……ま、待って下さい……っ」
気が付けば、あやねは叫んでいた。頭が追い付かない。何を言われているのか、理解出来ない。
私が……“ましろ”役? 演技も出来ない素人なのに?
そんなの無理に決まっている。確かに、台本を読んでその美しい物語に引き込まれた。特に、“ましろ”はとても、共感できる部分もあった。でも、それとこれは別である。
あの映画『スノードロップ』の中で、一番のキーパーソンは“ましろ”だ。ある意味、一番難しい役どころともいえる。台詞は少なかったが、その少ない中にある台詞ひとつひとつに重みがある役だった。
そんな難しい役を出来る自信など、あやねにはなかった。
「お気持ちは嬉しいですけれど、無理……ですよ。私、演技なんでした事などないですし……そんな大役務まるとは――」
「誰だって、最初は演技なんてした事ないんだ。俺だって初めてカメラの前に立った時は緊張したし、ボロボロだった。でも――周りの皆や、応援してくれるファンに支えられた。一番大事なのは、“気持ち”なんだ。技術なんて、後からでも身に付けられる。純粋に考えて欲しい、あやねは“ましろ”をどう思った?」
「それは……」
素敵な人物だと思った。見ているもの全てを魅了するような、透明感のある、神秘的な存在――。表情や仕草ひとつで、人々を惹き付ける。
だからこそ、難しい役というのが理解出来た。それは演技力が試される役なのだ。“気持ち”だけでは、どうにもならないと思った。
それを素直に伝えると、楽は小さくかぶりを振った。
「あやね、確かに、お前の言う通り難しい役だと思う。俺のやる“久我志月”よりもずっと――でもな、“気持ち”の籠ってない演技では人の心は動かないんだ。どんなに演技力のある女優でも、“気持ち”の入ってない演技に、人は感動しない」
「……」
「だから、監督は“ましろ”役を決めかねていたんだ。今の役者の中に演じきれる人がいなかったから。公開オーディションまでして――それでも、存在するだけで人を魅了する人物には出会えなかった。――あやね、お前以外には」
「楽さん……」
「あやねが、ピアノや音楽に抵抗感を持ているのは知ってる。それでも、お前の存在は、音は、人を魅了する事が出来る」
「……っ」
脳裏にいつだったか、春樹が言った言葉が蘇る。
『あやねの音は素敵だね。人を魅了できる音だ』
彼はそう言って、あやねの音を褒めてくれた。嬉しかった。こんな自分でも誰かに“感動”を与える事が出来るのだと思った。
そして楽も――。
『お前の存在は、音は、人を魅了する事が出来る』
そんな風に言ってくれる人などもう、いないと――そう、思っていたのに……。
「あやね?」
気付けば、あやねは泣いていた。知らず流れた涙が頬を伝っていく。それを見た、楽が一瞬驚くが、そっとあやねの涙をその指で拭った。
「悪い、泣くほど嫌だったか?」
そう言った楽の言葉は、心なしか哀しそうに聞こえた。そんな楽にあやねは小さくかぶりを振る。
「違っ……違うんです……。その、以前も同じような事を言ってくれた方がいたのですが、その方とはもう会う事が叶わなくて――。それを思い出したら……っ、すみません……泣く、つもり、は……」
その時だった。突然、楽があやねを引き寄せたかと思うと、そのままその腕で抱き締めてくれた。その腕があまりにも優し過ぎて、また涙が溢れそうになる。
だが楽は、今度は「泣くな」とは言わなかった。何も言わず、ただ静かに抱き締めてくれて、優しく背中をさすってくれる。そんな楽の心遣いが身に染みて、あやねはただ楽の腕の中で嗚咽を洩らす事しか出来なかったのだった――。
2025.03.19

