◆ 壱章 千の姫 3
すぅーと深呼吸する
辺りは静かで静粛に包まれていた
時折、鳥の鳴き声が聞こえるが、今はそれも気にならない
シン…と静まり返った一室で明日菜は目を閉じたまま、じっとしていた
心の内に眠る”力”がふつふつと浮かび上がってくる
その”力”は明日菜の全身に巡り、指の先から足の先まで行き渡る様に感じた
眠っていた”それ”は彼女に語りかける
『明日菜………』
明日菜は言の葉には乗せず、ゆっくりと答える
『私を望むか………』
語りかけてきた”それ”は静かに、明日菜の中で囁いた
「……………」
すぅっとゆっくりと瞳を開ける
翡翠の瞳が朝日に照らされて、その光を露にする
窓から差し込む朝日が明日菜の顔を照らした
静かな朝だった
心も落ち着いている
「うん、大丈夫」
明日菜は自分に言い聞かせる様に、そう呟いた
先日、後白河院と会った
目的は源氏との和議を取り成してもらう為
しかし、後白河院は条件を突きつけてきた
その条件とは、雨乞いの儀式で雨を降らす事
今、京の都は もう数ヶ月雨が降らず皆が困っていた
そこで催されるのが雨乞いの儀式
舞いを奉納し龍神を呼ぼうというのだ
正直、この京の生まれでない明日菜にとってそんなの迷信以外の何者でもなかった
舞いを舞ったからといって雨が降るなどありえない
そんな事、明日菜の居た世界の住人なら子供でも知っている
雨が降るのは、大気中に含まれる水蒸気が、気温が下がったり上昇気流に運ばれたりすることで凝結して、細かな水滴(雨粒)でできた雲となり、雲の中で雨粒が成長し、やがて大きくなった雨粒が地上に落下することで、雨となる
決して、龍神の加護があるからではない
龍神が雨を降らす訳ではない
でも、京の人間は龍神のおかげだと思っている
なら、龍神の居ない今、雨が降らないのは納得出来るのではないのだろうか
それを雨乞いの儀式で龍神を呼び戻そうなど、浅はか以外の何者でもない
事実、人が雨を降らす事など不可能なのだから
そう、”普通の人”には不可能――――
でも、私は”違う”
私の中に眠る”これ”は雨をも降らす
勿論、それを使う事には代償が付く
何事も、代償無しでなし得られる事など無いのだから
それなりの事をすれば、それ相応の対価が必要になる
だから、将臣は反対したのだ
その”力”を使えば、明日菜がどうなるか知っているから
でも、明日菜の中に躊躇いはなかった
雨さえ降らせられれば、後白河院は和議を取り成すと約束した
ならば、私は雨を降らせよう――――
全ては、平家一門の―――将臣の為に
**** ****
「明日菜」
宿の部屋から出た所で、将臣に呼び止められた
明日菜はにっこりと笑い
「おはよう。将臣」
「ん?ああ、おはよう」
何事もない様に、挨拶を交わす
「朝食食べに行くでしょ?下に行きましょう」
そして、何事も無い様に食堂になっている宿屋の1階に行こうとする
が、それは将臣の手によって遮られた
ぐいっと腕を引き寄せられる
「将臣?」
「お前、本気か?」
「……………」
何の事を言っているのか、直ぐに分かった
将臣的には、まだ納得していない様だった
「勿論、本気よ」
きっぱりと言い放つ
将臣はその答えを覚悟していたのか、はぁーと頭を抱えた
「お前なー分かってるのか?お前が雨を降らす それは即ち―――」
「分かってるわ」
「分かってねぇ!」
ダンッと壁に押し付けられた
ぐっと押さえつけられた肩に力が篭る
「お前が、黒曜の力を使うって事は、お前自身の―――!」
「勿論、すべて承知の上よ」
明日菜はきっぱりと言った
「お前は……っ!」
それでも言い募ろうとする将臣の口を指で押さえた
「それ以上言わないで。 決心が鈍るわ」
「……明日菜」
将臣が悲しそうに顔を顰めた
「将臣も分かってるのでしょう? 和議は何があっても結ばなければならい。 それは一門を救う為。 その為ならどんなことでもすると誓ったのを忘れた?」
「……忘れてねぇよ。忘れてねぇ…だけどな!」
「将臣が私の事を心配して言ってくれてるという事は良く分かってるつもりよ。 それは嬉しいわ」
じっと将臣を見つめ、明日菜は続けた
「でも、院が出した条件は雨を降らす事。 それは今の私には出来ない事じゃない。 なら、やるしかないじゃない。 雨を降らせば和議を取り成してもらえる。それは一門を助ける近道になるわ。その為にわざわざ危険な京の都に戻ってきたんじゃない」
「それは………」
彼女の言う事は正論だった
その為に…平家一門を助ける為に、将臣達は危険な京までやって来た
その目的を果たさず帰るなどあり得ない
全ては、後白河院に源氏との和議を取り成してもらう為
そして、一門を”滅び”から救う為―――
その為ならどんな犠牲も厭わない気持ちでいた
「でもな、俺はお前も助けると誓った筈だ」
将臣が強い眼差しで明日菜を見た
真っ直ぐで曇りの無い瞳
そんな将臣の瞳が明日菜は好きだった
明日菜は、こくっと頷き「分かってるわ」と答えた
「将臣の気持ちは嬉しい。でも、私は黒曜も救うと誓ったの忘れた?」
そう言って、そっと自分の胸元を押さえる
自身の内に眠る力―――それは黒曜の力
その力が大きく、明日菜の身体を蝕む事もあるが、それは辛い事ではない
少なくともこの力に明日菜は救われた
あの時、黒曜の助けがなければ明日菜は死んでいた
だから、黒曜の”願い”を叶えてあげたい――――彼を救ってあげたい
「京に来て黒曜が微かに動揺している。きっと何かあるのよ」
記憶を失った黒曜
その黒曜が少なからず動揺している
恐らく、”京”の”何か”に反応しているのだろう
「もしかしたら、今日の雨乞いの儀式で何か掴めるかもしれないわ」
「……………」
納得いかないという感じに将臣は眉間に皺を寄せた
いや、恐らく納得しているが出来ない―――と言った感じだろう
「だから、心配しないで」
にこっと笑い、将臣の肩をぽんっと叩く
将臣は、はぁーと溜息を付きスッと手を離した
「…ったく、お前は。言い出したら聞かないからな。頑固なのも困りもんだぜ」
「あら、それは将臣もでしょう?」
くすっと笑みを浮かべ明日菜は意地が悪そうにそう言い返した
将臣は少し面食らった様にぽかんっと口を開いたが、次の瞬間くつくつと笑い出した
「はいはい、そうですね」
それにつられて明日菜もくすくすと笑い出す
うん、これでいい――――
やっぱり、将臣とは笑っていたい
そう思うのだった
◆ ◆
空は晴天だった
雲ひとつ無い、真っ青な空
雨が降る所か、その予兆すらない
神泉苑
その日は後白河院主催の雨乞いの儀式が厳かに執り行われていた
この年、京の都は例年を見ない程干上がっていた
加茂川も桂川も流れが切れ筒井の水も絶えて人々が苦しんでいた
慣例により、比叡山、三井寺、東大寺、興福寺などの高僧貴僧百人が、神泉苑の池で仁王経を読んだが、効果はない
神泉苑の池は、その昔弘法大師が雲を呼び雨を降らせる神力をもっていると考えられている龍神に祈って雨を降らせたと云われ、以来この池には龍神が住むと云われていた
雨乞いの儀式を催して雨を降らす事が出来るか否かは、この当時の支配者にとってはその真価が問われる重要な事だった
後白河院は行幸を仰ぎ、見目麗しい舞姫百人を召してこの池で舞わせ、龍神の神力を呼び覚まし、朝廷の力を示そうとしたのだった
苑の中央に置かれた舞殿の上で何人もの白拍子が雨乞いの舞いを舞っている
今、98人目の白拍子の舞が終わった
依然、空は青く雲ひとつない
雨所か、雲ひとつ無い空は青く澄み切っていた
照り付ける太陽が眩しく、儀式を見に来ていた公達の額にも汗がにじみ出ている
また、管弦の音が聞こえだした
99人目が舞を始めたらしい
明日菜は千早に朱の袴の水干姿に身を包み、腰に細太刀を佩く
そして瞑想する様にじっと瞳を閉じ、その時を待った
遠くで舞の終わりを告げる笛の音が聞こえた
だが、雨の降る兆しは現れなかった
「やはり、雨は降らぬのだろうか……」
「舞で龍神様を呼ぼうというのに無理があるのでは……」
公達のざわめきや不安の色が見える
「次で100人目か……」
「これで最後だろう?雨が降らなかったらどうするんだ?」
「後白河院のご威光も地に落ちたものだな」
そんな公達の言葉を耳にして、舞殿から申し訳無さそうな、いたたまれない顔をした白拍子が下りてくる
彼女が悪い訳じゃない
なのに、自分のせいの様に気落ちしている彼女を見るのは忍びなかった
すれ違い様に彼女がぺこっと頭を下げた
明日菜はにこっと微笑みかけて頭を下げた
何を言っても彼女を傷つけそうで言葉は発せられなかった
天幕から出て、天を仰ぐ
空は真っ青で晴れ渡っていた
この状況下で雨を降らす
普通の人ならば当然無理な話だった
でも………
この”力”があれば…黒曜が応えてくれるならば 雨は降る
ぐっと胸の前で拳を握り締める
緊張しているのだろうか
俄かに震えていた
その緊張を吹き飛ばすかの様に明日菜はぎゅっと拳を握った
そして、1歩1歩舞殿への歩を進める
大丈夫 出来る
そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと舞殿の壇上に上がった
明日菜はゆっくりと辺りを見回す
もしかしたら将臣がどこかにいるかもしれない
将臣の立場上表立って雨乞いの儀式に参加する事は出来ない
こんな事にならなければ明日菜だって立ち入れない筈だった
平家――――それだけで都からは追われる身
こんな表舞台に出ることは叶わない
将臣が居ない事に少し安堵する
彼ならこっそりその辺で様子を見てるかもしれないが、出来ればこんな危ない所には来て欲しくなかった
ふと、後白河院と目が合った
院は読めぬ表情を勺で隠しこくっと頷いた
「明日菜、期待しておるぞ」
そう声を掛けられた
明日菜は答える代わりに、恭しく頭を下げた
そして、ゆっくりと顔を上げる
手には舞扇
緊張を解く様にすぅっと息を吸い、ゆっくりと翡翠の瞳を閉じる
心の内を開く
”力”が胸元からじわじわと全身へ行き渡る
「……………」
そして、ゆっくりと瞳を開け、天高く舞扇を掲げた
パンッと勢いよく舞扇を開く
それと同時に笛の音が響き渡った
笛に加わり奏や鼓の音も混ざる
舞が――――始まった
優雅に舞扇を操り孤を描く
扇を持っていない手が、それに重なり半円を描く
それに重なる様に明日菜の口から謡が流れ出した
雨を乞う
私は雨を乞う
龍神に呼びかける様にゆっくりとゆっくりと謡が音になっていく
黒曜……
明日菜は心の中で”それ”に語りかけた
黒曜
ふつふつと何かがその”呼びかけ”に応える様に何かが浮かびあがってきた
それは、全身に巡り、肌の隙間から外へ飛び出す様な感覚に襲われる
ビリビリと鳥肌が立った
全身に痛みが走る
それでも明日菜は呼びかけを止めなかった
黒曜……応えて……!!
パンッと身体の中で何かが弾けた
『明日菜』
”それ”が応える
『雨を望むのか……?』
望むわ
私は――――雨を 望む
天高く舞扇を勢いよく掲げた時だった
ゴロゴロと空が唸り、厚い暗雲がたち込めた
空は瞬く間に雲に覆われ、辺りが暗くなる
そして――――
ポツ……
ポツ……ポツ………
「これは……」
「まさか……」
公達がざわめきだした
ぽつぽつと降り始めた”それ”は瞬く間に大きな雨粒へと変わった
そして、あっという間に土砂降りになった
ザ―――――
空から雨が降り、苑の池に波紋が広がる
「雨だ!雨が降ったぞ!」
「龍神様が応えて下さった!」
辺りが一斉に沸きあがった
雨が降る中―――明日菜は舞殿で舞を舞い続けた――――
雨乞いの儀式の最中です
って・・・あれ? 九郎さんまた出てこなかったよー!?
儀式の最中は将臣くんとは別行動中っぽい?
いや、まぁ神泉苑に居たら色々問題だと思うのよ
という訳で、次回こそ九郎さん出る・・・といいなぁ?
2010/03/25