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◆ 第2話 -人鬼- 2
「……」
莉芳が、荘介達が去った扉の方を見る。
思ったより、素直にしたがったな……。
「真夜を抱く」という言葉に、もっと反発するかと思ったが……。
まぁ、信乃が起きていれば暴れたかもしれない。
「……」
するりと、触れていた真夜の髪を自身の口元に寄せる。
「……真夜……お前は、どうして―――」
「はぁ……」と、莉芳は小さく息を吐いた。
ぎし……と、ベッドが軋む音が部屋に響く。
莉芳がゆっくりとした動作で、自身の首元のボタンを外すとそのまま真夜の服に手を伸ばした。
するり……と、彼女の白い肌が露になる。
傷一つついていないその美しい身体は、何度となく、この手で抱いたものだった。
莉芳が、ゆっくりとした動作でその灰青色の瞳を細めた。
「真夜―――」
そして、その美しい彼女に、優しく触れる様に口付けを落としたのだった。
◆ ◆
ぴちゃ―――ん……。
水が滴る音が響く。
“そこ”は真っ暗で、まるで誰かが、“表に出せない何か”を隠している様な、そんな濁った空気のする場所だった。
「……」
真夜は、気が付くと素足のままその地下へと続く“場所”に立っていた。
鉄の錆びた様な、嫌な匂いが辺り一帯に広がっている。
思わず、口元を塞ぎたくなる程、その“匂い”は噎せ返っていた。
(これ……)
間違いない。
それは、“血”の匂いだった。
それも、今ではなく、ずっと昔の――。
何度となく、流されて染みついた“血の匂い”そのものだった。
息が詰まりそうになる。
(こんな所は、“人”がいていい場所ではない)
気が狂いそうになる。
思わず、口元を押さえて、琥珀の瞳を細めた。
一歩一歩、歩を進める。
ひんやりとした石の感触が、素足に纏わりついてくる。
地下へと続く階段を降りたその先は、いくつのもの“鉄格子の牢”があった。
(なに、これ……)
そして、一層酷くなる“血”の匂い。
ごくり……と息を吞むと、真夜は真っ直ぐ灯りの無い通路を歩いた。
ぴちゃ―――ん……。
奥の方から、何かが滴り落ちる音が聞こえる。
そして、真新しい“血”の匂いも。
瞬間――目の前が開けた。
そして、“そこ”にある“その光景”に、真夜を己の目を疑った。
そこには、両手を吊るされた 右の頬先に牡丹の痣がある“男”がいた。
全身、拷問されたような無数の傷があり、いたるところに乾いた血がこびり付いている。
(あ……)
“彼”を見た瞬間、どくん……と、大きく真夜の心臓が鳴った。
何故かは分からない。
分からないが――まるで“昔から彼を知っている”様な、そんな感覚に捕らわれる。
―――がしゃん
不意に、その男が朧気な瞳のままゆっくりと顔を上げた。
真夜の琥珀の瞳と目が合う。
瞬間、男の碧色の瞳が大きく見開かれた。
「ぬ、い……な、のか……?」
(え……?)
震える声で、男がそう呟いた。
真夜が知らず、大きく目を見開く。
思わず、「違う」と声を発しようとするが、それは音にはならなかった。
男は、真夜を見ると優しげに微笑んだ。
(……っ)
男のその表情に、真夜は心臓を抉られたかのように“何か”が軋んだ。
わたし、は……。
知らず、足が動いた。
思わず、彼に駆け寄る。
(――さん……っ)
名前の分からない“彼の名”を呼ぶ。
違う。
知らない。
私は、この人を知らない。
なのに、何故か“知っている様な”気がした。
初めて見た筈なのに――ずっとずっと昔から知っていた様な。
名を―――。
名を呼びたいのに、分からない。
今すぐ彼のこの拘束を解きたいのに、触れられない。
やるせない思いが、真夜の中で悲鳴を上げた。
すると目の前の“彼”は、まるでそんな不安げな真夜を安心させるかの様に、優しく微笑み、
「そんな、かお……する、な……」
違う。
そんな事を言わせたいのではない。
思わず、真夜が首を振る。
今にも泣きそうな真夜を見て、“彼”はこんな扱いを受けているのに笑った。
「なく、な……沼蘭。おれ、は――今、おまえ、の……のに、ふいて、や、れな……い」
“沼蘭”
自分の名ではない“名”。
彼は、真夜を見て“沼蘭”と呼んだ。
それは、知らない“名”だった。
それなのに、何故か酷く気になった。
そう――これと似た様な事を昼間にも感じた。
信乃を押しつぶしたあの青年――名前は……聞きそびれてしまったが。
あの青年も確か、似た様な反応していた。
真夜をみて、驚いていた。
目の前の彼と、その青年の言う“人物”が同一人物かどうかはわからない。
分からないが―――。
真夜が、そっと目の前の青年の頬に触れる。
だが、その手はするりとすり抜けた。
ああ、やっぱり……。
真夜は自身の現象にようやく納得がいった。
また、意識だけ抜けてしまったのだわ―――。
“ここ”に、真夜の“身体”はない。
あるのは、“意識体”だけ。
だから、真夜がどんなに声を発しようとも、目の前の彼に手を伸ばそうとも。
すり抜けるだけ―――。
声は――届かない。
(……また、莉芳に怒られるわね……)
“危ない”ので、絶対にするなと言われていた。
言われていたのに……気が付いたら、ここにいた。
そう――まるで、何かに吸い寄せられたかのように……。
それはきっと―――。
目の前にいる碧みがかった髪と瞳の、傷だらけの青年を見る。
彼は、真夜の視線に気づくと、優しく微笑んだ。
苦しいはずなのに……。
笑っていた。
(どう、して……)
どうして、笑えるのか。
そんなに“沼蘭”という女性に“会えた”のが嬉しいのか。
その笑顔は、自分に……真夜に向けられたものではなく。
“沼蘭”に向けられたものだからか……。
何故か、酷く……。
苦しい―――。
せめて、実体があれば――彼の拘束を解くことが出来るのに。
それすらも、叶わない。
自分はなんて無力なのだろうか……。
今、彼にしてあげる事があるのだとしたら、ただ、傍にいるだけ。
それ以外は、なかった。
(……私では、駄目なのは分かっている。けれど)
真夜は、彼の横に座ると。
触れられないその手で、彼の汗を拭った。
(せめて、ここに夜刀がいれば……)
彼を拘束から、解放してあげられるのに……。
「ぬ、い……?」
ふと、一瞬。
ほんの一瞬、“彼”の碧みがかった瞳が大きく見開かれた。
そして、何かに気付いたかのように、ふっと笑みを浮かべたのだ。
「そ、か……、そう――だ、よな……」
(……?)
真夜が不思議そうに首を傾げた時だった。
「これはこれは! 何やら、面妖な気配を感じたと思って来てみれば……招かれざる客が来ているようだな」
はっとして、真夜が声のした方を見ると……。
そこには、信乃があの青年に潰された時、笙月院から出てきた、僧侶がそこにいた。
そう――名は確か。
“青蘭”。
(確か、要様の……)
笙月院の青蘭といったら、正直あまり良い噂は聞かない。
事実かどうかは定かではないが、妙な“虫”を使役しているという噂も聞く。
その青蘭が関わっている。
それだけでも、厄介なのに。
あの時、信乃を潰した青年を突き飛ばした時、青蘭は何と言ったか……。
『我らが捕らえたのは人ではない――“鬼”じゃ』
“鬼”。
確かに、あの時青蘭はそう言っていた。
その“鬼”とは誰を指すのか。
それが、今傍にいる“彼”の事を指しているのは明白だった。
だが―――。
(確かに、少し妙な気配は感じるけれど……)
彼は“鬼”ではない。
まぎれもなく――“人”だ。
それは、間違いなかった。
もしも、彼が本当に“鬼”なのだとしたら……。
旧市街を、信乃を追って歩いていた時の噂。
“朱雀門に出る、妖を喰らう鬼”。
それが彼なのだとしても……。
思わず、傍にいる彼を見る。
“意識体”の所為か、“その手の類”には今の真夜は酷く敏感な筈である。
にも関わらず、真夜は彼に対して、“警戒心”はなかった。
むしろ、危険なのは―――。
目の前に現れた青蘭を見る。
この男だ。
この男こそ、もっとも危険だった。
すると、青蘭には真夜の姿が見えているのか、真っ直ぐにこちらを見て、その口元に笑みを浮かべた。
「ほぅ……よもや、侵入者が教会の“隠し巫女”と呼ばれる貴殿とは、思いもよらなんだ。さて、一体、この男とどういう関係か聞かせてもらおうか? “夜刀神”の主殿よ」
(……っ!)
気付いているっ!
まさか、“意識体”の自分に気付くとは、流石の真夜自身も思わなかった。
それはつまり、それだけこの男――青蘭が“人ならざる者”に近いしい証拠でもあった。
「や、と、がみ……?」
真夜の傍にいた彼がぽつりとそう呟く。
そして、真夜の方を見た。
(……っ)
事実とは言え、彼にはまだ自分が沼蘭ではないと告げていない。
真夜はなんだか、居たたまれなくなり視線を逸らした。
すると、くすっと彼が笑う気配がした。
「だい……ぶ、だ。わかっ、て……た、から……」
(え……)
「沼蘭は……、もう、い、ない……」
彼が少し寂しそうに、そう言って笑った。
(あ……)
それでも、沼蘭が自分を迎えに来てくれたのだと。
やっと、沼蘭の元へいけるのだ――そう、思いたかったが故に、彼女の真実の姿が見えていなかったのだ。
だが今は違った。
彼の瞳には、沼蘭と同じ琥珀の瞳をした、漆黒の髪の美しい少女が映っていた。
彼女の美しい金にも似た琥珀の瞳は、沼蘭を思い出させた。
故に、彼女が沼蘭であれば――そう……思ってしまった。
「お、まえ……名、は……?」
ちゃり……。
青年が、少し真夜の方を向いてそう尋ねてくる。
(名前……)
真夜は迷った。
自分の声は彼には届かない。
故に名乗る術をもたないのだ。
(……伝わるか、分からないけれど……)
真夜は、すっと自身の掌を彼に見せて、そこに人差し指で文字を書いた。
“真夜” と。
すると、それを見た青年は、小さな声で、
「そ、うか……、それが、お前の……名、か……。いい、名だ……」
そう言って、また微笑んだ。
そして、ゆっくりとした口調で、
「俺は――現八、と、言う……だ。おぼえた、か……? 真夜……」
(……っ)
初めて、彼の口から自分の名が“音”となって紡がれる。
知らず、真夜は涙を流していた。
どうしてかは、分からなかった。
何故、こんなに悲しいのか……。
何故、こんなにも苦しいのか……。
この人に――現八に名を紡がれただけで、何かが心の中で溢れてくる。
そんな真夜を見て、現八は苦笑いを浮かべた。
「だから、泣く、な……。真夜……」
(……っ)
言葉を―――。
声を、掛けたいのに……それが出来ない。
「はは……今は、お前の、こえ、が……聞けない、のが、ざん、ね……ん、だ」
真夜は、たまらず現八の首に手を廻して彼を抱きしめた。
お願い。
彼を……。
だれ、か……。
助けて―――っ!
新:2025.05.18
旧:2021.06.14

