深紅の冠 ~無幻碧環~

 

◆ 白い息のあいだ

 

 

―――夕方

 

 

その日は、酷く寒かった。もう二月も終わりそうだが、まだまだ冬の寒さが抜けない。凛花は、学院の帰り道、白い息を吐きながら、街の中を歩いていた。流石に、コートだけでは寒さ対策として不十分だったかと少し後悔する。かじかむ手をこすりながら、帰路につく足を早めた、その時だった。

 

「凛花?」

 

ふと、聞き覚えのある声が聞こえてきて、凛花が思わずその足を止めた。見ると、通り道にあったコンビニから出て来たのか、五条と夏油が買い物袋を片手に持って、そこに立っていたのだ。

 

「五条さんに……、夏油、さん……?」

 

「や、凛花ちゃん、奇遇だね。学校の帰りかい?」

 

そう言って、夏油が片手を挙げて挨拶をしてくる。その言葉に、凛花ははっとして慌てて頭を下げた。

 

「こ、こんにちは」

 

礼儀正しく挨拶をしてくる凛花に、夏油がくすっと笑みを浮かべた。

 

「こんにちは、凛花ちゃんは相変わらず、そういうとこは丁寧だよね。……どっかの誰かと違って」

 

そう言いながら、後ろで買ったばかりの苺ミルクのパックジュースをストローで飲んでいる五条を見る。そんな夏油に「うるせー」と悪態付きながら、五条が凛花の方にやってきた。そして、凛花を見るなり、

 

「オマエ、寒くねーの? 今日、結構冷えるだろ」

 

そう言って、凛花の赤くなった頬や、手を見て言う。凛花はというと、何だか見られているのが恥ずかしくて、少し視線を泳がせた。

 

「あ……その、少し……」

 

「寒い」とは言えず、思わず口籠ってしまう。何故なら、コートを着ている自分とは違って、五条は制服の上に蒼いマフラー1枚しか巻いていなかったからだ。だが、五条は凛花の逡巡を見逃さなかった。ストローを外して、苺ミルクの紙パックを夏油に押しつける。

 

「持ってて、傑」

 

「はいはい」

 

軽く受け取った夏油が、少し離れた自販機の方へ歩いていく。2人きりの間合いが、雪の粒みたいに静かに落ちてきた。五条は凛花の前に立つと、首に巻いていた蒼いマフラーを、何の前置きもなくほどいた。ふわりと外気に触れた布が、ほのかな体温を含んだまま揺れる。

 

「ほら」

 

差し出されて、凛花は目を瞬いた。

 

「え、あの……」

 

「今日、風あるし。見てる方が寒い」

 

言い終わる前に、彼の指先がマフラーの端を持ち上げる。触れそうで触れない距離のまま、凛花の首元へと回され、やわらかな重みが落ちた。体温が移る、というより、冬の空気が一段だけ優しくなる。

 

「で、でも……五条さんが」

 

「俺は平気。つか、返却は――」

 

彼は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いて、口角を上げた。

 

「雪解けの日な。貸出」

 

凛花は思わず同じ言葉を重ねた。

 

「か、貸出……?」

 

「契約。細則は口頭。冬の間は外さないこと」

 

「え、あの、そんな……」

 

「はい、同意?」

 

差し出されたのは手じゃなくて、視線だった。サングラスの奥の五条の碧い瞳が、じっとこちらを見ている。逃げ場をなくされたみたいに、凛花は小さく頷くしかなかった。

その瞬間、二人の白い息が同時にほどけて、同じ形で空に溶けた。

 

「……あ、ありがとう……ございます、五条さん」

 

「――“悟”って呼べよ」

 

あまりに軽く言われて、凛花は聞き間違えたのかと思った。

 

「え?」

 

「“五条さん”って、なんつーか……遠いじゃん」

 

遠い……?

五条の言う意味が分からず、凛花が口を開き掛けた時だった。彼がもう一度だけ、確かめるように繰り返した。

 

「悟」

 

喉まで上がった音が、冷気に触れて固まる。凛花は視線を落とし、マフラーの端をそっと指で整えた。

 

「……ご、」

 

声にならない。代わりに、彼の影が一歩分だけ近づく。

 

「ま、ゆっくりでいいよ」

 

その言い方が、なぜか“急がなくていい”よりも近い意味を持って聞こえた気がした。と、その時だった。離れたところから、夏油が温かいミルクティーの缶を2つ持って戻ってくる。

 

「はい、温かいの。――あれ、もう巻かれてる」

 

「効率化」

 

五条が当然の顔で言うと、夏油は肩をすくめて凛花に片方の缶を差し出した。手のひらに伝わる熱と、首元のぬくもりが、同じ温度で重なる。

 

「ありがとう、ございます……」

 

言いながら、凛花はふと気づく。さっきより歩幅が揃っている。触れてはいないのに、足音の間隔が、同じリズムだ。

 

「傑―。先帰ってて。俺、コイツ送っていくからさ」

 

「え……?」と思う間もなく、五条が荷物を夏油に預けると、ミルクティーだけ受け取って戻ってきた。

 

「あ、の……」

 

「ん」

 

おもむろに出された手。一瞬、凛花がその深紅の瞳を瞬かせた。差し出された大きな手に、凛花がおずおずと指を重ねる。その瞬間、ぐい、と強い力で引かれた。

 

「きゃ……っ」

 

「外、まだ冷えるから」

 

驚く間もなく、重なった手はそのまま五条の制服のポケットへと滑り込む。彼の体温がダイレクトに伝わる狭い空間に、思わず凛花の顔が真っ赤に染まった。

 

「……あ、の……っ、五条さん……っ」

 

「さーとーる。……ま、今はこれで勘弁してやるよ」

 

ポケットの中で、彼の手が少しだけ強く、凛花の手を握り直した。五条は何でもないような顔をしていたが、気のせいか、ほのかにその耳は赤かった。そんな五条の気遣いに、不思議と心が温かくなる。

 

「あ、夏油さん、失礼します……っ!」

 

慌てて夏油にぺこりと頭を下げ、凛花は引きずられるようにして五条の隣を歩き出す。後ろで夏油が「悟、あまりいじめるなよ」と苦笑する声が聞こえたが、今の凛花にはそれに答える余裕すらなかった。

 

隣を歩く五条の歩幅は、いつもよりずっとゆっくりだった。けれど、制服のポケットという逃げ場のない狭い空間で重なる手のひらは、外気よりもずっと熱い。

 

……恥ずかしい、どうしよう。

 

意識すればするほど、自分の心臓の音が指先を伝わって彼にバレてしまうのではないかと気が気ではなかった。凛花は俯いたまま、そっと指の力を抜いて手を引き抜こうとした。だが、その瞬間。

 

「……逃げんなよ」

 

低い声が降ってきたかと思うと、ポケットの中で五条の長い指が、凛花の指の間へと深く滑り込んできた。いわゆる、恋人繋ぎだ。節の固い、けれど驚くほど大きな彼の手が、凛花の小さな手を完全に閉じ込める。

 

「あ……っ」

 

指を絡められ、もはや指先ひとつ動かせない。あまりの密着感に、凛花の思考は真っ白に染まった。何か話さなければと思うのに、喉が詰まったように固まって、言葉が出てこない。

 

冷たい夜風が頬を叩くはずなのに、顔だけが火照って、視界がちかちかと点滅する。五条はといえば、前を向いたまま鼻歌混じりに歩いているが、繋いだ手には決して緩みのない確かな力が籠もっていた。

 

そうして、沈黙のまま、気づけば神妻の屋敷の門前に辿り着いていた。凛花は逃げるようにその手を解くと、火を噴きそうな顔を隠すようにして、首元のマフラーに手をかけた。

 

「あ、の……ありがとうございました。これ、お返しします」

 

すると、慌てて結び目を解こうとする凛花の指先に、五条の手が重なり、その動きを制する。

 

「……五条、さん?」

 

「……。貸出期限は雪解けまでっつったろ」

 

五条はマフラーの端を整えるようにして、凛花の首元へぐいっと押し戻す。サングラスの奥の碧い瞳が、少しだけ意地悪に、けれど熱を持って揺れた。

 

「勝手に返却すんな。契約違反だぞ」

 

「で、でも、これは五条さんの……」

 

「悟、だろ。……ま、いいや。次会う時も、ちゃんと巻いてろよ」

 

そう言って、彼はひらりと手を振ると、一度も振り返ることなく夜の闇へと溶けていったのだった。

 

一人残された門前で、凛花は彼に巻かれたマフラーに顔を埋める。そこには、先程までポケットの中で感じていた彼と同じ、温かな体温の残香が満ちていたのだった。

 

 

 

 

―――呪術高等専門学校・東京校 男子寮

 

 

五条が自室のある廊下へ足を踏み入れると、そこには既に自分の部屋の前で壁に背を預けて待っている人影があった。

 

「おかえり、悟。予定より少し遅かったじゃないか」

 

夏油が、手にした空の紙パックを揺らしながら薄く笑みを浮かべている。その視線は、五条の首元――つい先程までそこにあったはずの、蒼いマフラーが消えている場所に注がれていた。

 

「あー……。ちょっと寄り道っつーか、歩くの遅せーんだよ、アイツ」

 

五条は隠す様子もなく、預けていた荷物を夏油から受け取る。だが、夏油の追及はそこでは終わらなかった。

 

「へぇ。歩くのが遅い女の子を、あんな風に自分のポケットに手を突っ込んでまでエスコートしてたわけだ。……ずいぶんと『過保護』なことで」

 

「……うるせーよ。効率の問題だっつったろ。手が冷てーって顔してたから、温めてやっただけ」

 

五条はぶっきらぼうに言い捨ててドアを開けようとするが、夏油の「にやにや」とした視線が背中に突き刺さる。

 

「効率ね。……それなら、普通に手袋でも買ってあげれば済む話じゃないかな? なのにわざわざ、君の『お気に入り』のマフラーまで貸して……。おまけに、あの繋ぎ方。指、しっかり絡めてただろう?」

 

図星を突かれた五条の手が、ドアノブの上で一瞬だけ止まる。振り返った五条の顔は、夜の闇の中でもわかるほどに、まだ少しだけ熱を帯びているように見えた。

 

「……傑。お前、見てたなら声かけろよ」

 

「いや、あまりにいい雰囲気だったから邪魔をするのも野暮だと思ってね。で? 結局『悟』って呼ばせることには成功したのかい?」

 

五条はチッと舌打ちをすると、サングラスを少しずらし、不敵な笑みを浮かべた。

 

「……雪が解ける頃には、嫌でも呼ばせてやるよ」

 

「……怖いね、君の執着心は」

 

夏油が肩をすくめて自分の部屋へ戻っていくのを見送りながら、五条は自室に入り、大きく息を吐いた。

ポケットの中に残っていた、凛花の小さくて柔らかい手のひらの感触。それを追いかけるように、彼は空になった自分のポケットを一度だけぎゅっと握りしめたのだった。

 

 

 

 

 

    ****    ****

 

 

 

 

 

―――二週間後

 

 

それから、二週間の月日が流れた。

 

暦の上では春が近づいているはずなのに、空は相変わらず低く垂れ込め、時折ちらつく粉雪が冬の居座りを告げている。

 

「お、凛花。また『偶然』だな」

 

学院の正門を抜けて数分。聞き覚えのある軽い声に、凛花は肩を跳ねさせた。振り返れば、そこにはゲーセンの袋を指に引っかけた五条が、当然のような顔で隣に並んでくる。

 

「……五条さん。今日も、任務帰り……ですか?」

 

「んー、今日はゲーセン。新作の景品取るのに手間取っちゃってさ」

 

これで、ここ二週間のうち何度目だろうか。

二日に一度、あるいは三日に一度。任務帰りだったり、買い食い帰りだったり、理由はまちまちだが、彼は必ず凛花の帰路に現れるようになっていた。あまりの頻度に「待ち伏せでは?」という疑念がよぎるが、本人が涼しい顔で「偶然」だと言い張る以上、凛花にはそれ以上追求できなかった。

 

そしてその隣には、いつも決まって「蒼いマフラー」がある。

 

実は一度、綺麗に畳んで紙袋に入れ、「お返しします」と差し出したことがあった。けれど彼は中身を見るなり、「あー、これ? ちょうど今、俺も寒いと思ってたんだわ」と袋から取り出し、あろうことか立ち止まった凛花の首元に、再びふわりと巻き直してしまったのだ。

 

『これ、貸出中。忘れた?』

 

いたずらっぽく笑う彼の指先が、マフラーの端を整えるついでに、凛花の頬をかすめていったあの熱。それ以来、凛花は律儀にそのマフラーを巻いて登校するようになっていた。

 

……どうして、ここまでしてくれるのだろう。

 

彼も忙しいだろうに、わざわざ自分に、これほどまで時間を割く理由が分からない。温かなマフラーに鼻先を沈めながら、凛花はぎゅっと胸元の布地を握りしめた。

 

「あの、五条さん……」

 

「ん?」

 

「……やっぱり、これ、今日こそお返しします。もう二週間も借りたままですし、流石に申し訳なくて……」

 

歩みを止め、凛花はマフラーの結び目に手をかけた。今度こそ、押し問答に負けないつもりだった。だが、五条は歩く速さを変えないまま、ふいっと空を見上げた。

 

「だーめ。却下」

 

「えっ、でも……」

 

「凛花、足元見てみ」

 

促されて視線を落とすと、アスファルトの隅や街路樹の根元には、数日前に降った雪が固まり、黒ずんだ氷となってしぶとく残っている。五条は足を止め、凛花の方へわずかに上体を屈めた。サングラスの隙間から覗く碧い瞳が、逃がさないと言わんばかりに彼女を射抜く。

 

「……まだ、雪解けてない」

 

「……」

 

「約束だろ? 雪解けの日が、返却期限って」

 

確信犯的なその微笑みに、凛花は反論の言葉を飲み込んだ。

彼は、春が来るのを拒んでいるのか、それとも、この「口実」が消えてしまうのを惜しんでいるのか。

 

「……まだ、冬、ですね」

 

消え入るような声で凛花が呟くと、五条は満足げにその頭をぽん、と叩いた。

 

「そ。だから、明日もちゃんと巻いてこいよ」

 

そう言って再び歩き出した彼の背中を追いながら、凛花は思う。

この雪が完全に溶けてしまったら、この「偶然」の日々も終わってしまうのだろうか。そう考えると、意地悪な冬の寒さが、もう少しだけ続いてほしいと願ってしまう自分に気づき、凛花はまた顔を赤く染めるのだった。

 

 

 

 

―――さらに、二週間後

 

 

三月も終わりに差しかかり、街の空気にはわずかに春の匂いが混じりはじめていた。けれど、風だけはまだ冷たく、朝晩の吐息は白く残る。

 

その日も、学院の門を出てほどなくして――。

 

「凛花」

 

呼び止める声に、もう驚かなくなってしまった自分に気づく。振り返ると、当然のような顔で並んでくる五条がいた。

 

「……五条さん」

 

「また“偶然”。すごくない?」

 

「……はい」

 

凛花は小さく頷きながら、首元の蒼いマフラーに触れる。ここまで来ると、もはや返す機会を探す方が不自然な気さえしていた。

 

けれど――今日は、違う。

 

足を止め、凛花は今度こそ意を決したように結び目に手をかけた。

 

「……あの。今日こそ、お返しします」

 

五条がわずかに眉を上げる。

 

「雪解けが、近いと思いますので……」

 

視線を上げる勇気が出ず、マフラーを外そうとする指先に集中する。だが、その動きは途中で止められた。五条の手が、上からそっと重なっていたのだ。

 

「……返却、却下」

 

「え……」

 

「延期で」

 

あまりにあっさりした声に、凛花は思わず顔を上げる。

 

「ど、どうして……」

 

ほんの一瞬、五条は言葉を探すように視線を逸らした。それから、いつもより少し低い声で言う。

 

「……まだ完全に春じゃないし。風邪でも引かれたら、俺が困る」

 

その一言が、凛花の胸の奥に落ちた。

 

理由としては曖昧なのに、妙に真っ直ぐで、逃げ場がない。彼の言葉はいつも軽いのに、今だけは違って聞こえた。

 

「あ……」

 

思わず声が漏れる。

 

指先が震えて、マフラーを握りしめたまま動けない。視界が滲みそうになり、凛花は慌てて瞬きをした。

 

「……優し過ぎます……」

 

小さく、でも確かに伝わる声。

 

「でも、その……ありがとう、ござい、ます……」

 

言葉が途切れそうになる。けれど今度は、逃げなかった。凛花はぎこちなく息を吸って、彼の名前を呼ぶ。

 

「……さ、悟……さん」

 

ほんの一瞬、風が止んだように感じた。

 

五条の歩みが止まる。サングラスの奥の瞳が、はっきりとこちらを向くと、次の瞬間、彼はふっと笑った。その笑みは、いつもの軽い笑い方なのに、どこか安堵したような気配が滲んでいた。

 

「ん。よくできました」

 

子どもを褒めるような口調なのに、声は少しだけ掠れていた。凛花は顔を真っ赤にして俯く。それ以上、何も言う事が出来なかったのだった――。

 

 

 

2人は再び並んで歩き出す。

 

触れてはいない。

けれど、歩幅も足音も、自然に揃う。

 

春はまだ遠い。けれど、冬の冷たさはもう痛くなかった。首元のぬくもりを確かめるように、凛花はマフラーをそっと押さえる。

 

隣から、静かな声が落ちてきた。

 

「……次、呼ぶときは“さん”いらない」

 

凛花の肩がびくりと跳ねる。

返事はできないまま、白い息だけが二人分、同時にほどけた。

 

その日、風はまだ冷たかった。けれど凛花は、もう寒いとは思わなかった――。

 

 

 

 

――三月終わりの午後

 

 

その日は、驚くほど暖かかった。街路樹の根元に残っていた黒い氷は跡形もなく消え、アスファルトは乾いた春の匂いを放っている。学院の正門を抜けると、いつもの場所に、けれど今日はマフラーを身につけていない五条が立っていた。

 

「……あ」

 

凛花は立ち止まり、自分の首元に手をやる。そこには、二ヶ月間ずっと自分を守ってくれていた、あの蒼いマフラーがあった。

 

「悟、さん」

 

「……ん」

 

五条はサングラスを外し、春の柔らかな光の中で凛花をじっと見つめる。その瞳は、冬の凍てついた碧よりもずっと深く、熱い。凛花は震える指先で、丁寧に、ゆっくりと結び目をほどいた。

 

「これ……約束通り、お返しします」

 

差し出されたマフラー。

それは、もう貸し出す理由のない「期限切れ」の品だ。これで、彼と自分の間を繋いでいた細い糸が切れてしまう。胸の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じながら、凛花は俯いた。

 

「雪、もう全部、溶けてしまいましたから……」

 

沈黙が流れる。

受け取ってくれるのを待っていたが、差し出したマフラーの端を、五条の手が静かに握った。けれど彼はそれを引き取るのではなく、そのまま凛花の手ごと引き寄せ、彼女の首元へ、三度、その布を巻き直したのだ。

 

「え……? でも、もう春に……」

 

「返さなくていいよ」

 

遮るような、低い声。

五条はマフラーの両端を握ったまま、凛花を自分の方へと引き寄せる。マフラーに包まれた凛花の顔が、至近距離で彼と向き合った。

 

「貸出は終了。今日からは、それ……オマエにやる」

 

「……え……?」

 

「その代わり」

 

五条の大きな手のひらが、凛花の頬を包み込む。親指が唇の端を優しくなぞり、逃げ場を奪うように彼が顔を近づけた。

 

「返却期限のない『契約』、新しく結べよ。……拒否権ねーから」

 

「あ……」

 

言葉を返す暇もなかった。

重なる吐息。触れるだけの短い接触から、深く、熱を確かめ合うようなキス。凛花の視界が、彼の瞳と同じ深い碧と、春の光に塗りつぶされていく。マフラーから漂う彼の匂いと、目の前の本物の彼の温度が混ざり合い、凛花の思考は甘い痺れに溶けていった。

 

「ん……、さと、るさ……っ」

 

吐息が交じり合う。一度離れては、二度三度と口づけられる。そのまま腰を抱き寄せられ、凛花は堪らず五条の制服の袖を握り締めた。

漸く唇が離れた時、五条は額を凛花の額に預けたまま、満足げに口角を上げた。

 

「……やっと、『悟』って呼ぶようになってきたよな」

 

凛花の顔は、冬の寒さで赤くなった時とは比べものにならないほど、深い深紅に染まっている。

 

「……、と……」

 

「ん?」

 

「……悟、さん。……いじわる……」

 

消え入るような声で名前を呼ぶと、五条は声を上げて笑い、今度はマフラーごと彼女を抱き寄せた。

 

「知ってる。……これからも、ずっとそうしてやるよ」

 

春の風が二人を追い越していく。

 

雪は解け、冬は終わった。

けれど、彼女の首元には今も、解けることのない「彼」が、温かく寄り添っていた――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2026.03.15