INNOCENT LYNC
-Valiant Moon-
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◆ Never Let You Go
―――你北中華街
ここは、多くの中国料理店や中国食材店・日用、雑貨店などが立ち並び、中国風の生活様式が保たれている街である。観光客向けの飲食店や店舗も多く、呼び込みやメニューが日本語で表記されている場合も多い。
そんな中、漆黒の髪に真っ白な衣を着た女が、早足で歩いていた。そして、その後ろを黒髪黒目に、肌に謎のタトゥーをしている長身の男が歩いている。
「莉紅~」
「……」
「ねえ、莉紅ってば~」
「……」
「莉紅さ~ん?」
「……っ」
何度も名前を街中で、しかも結構なボリュームで呼ばれるものだから、通りすがりの観光客が2人を振り返る。それが何だか無駄に恥ずかしくて、流石の女もその足を止めた。それから、不愉快そうに振り返ると、その黒髪黒目の男を睨み付ける。
「……あのね、街中でそんなに名前連呼しないでくれる? 与市君」
そう言って、男――南雲与市を見た。すると、南雲は彼女がやっと反応した事に嬉しそうに笑いながら、彼女の傍にやってきた。
「やっと、こっち見てくれた」
「……」
女――久我莉紅が、不満そうに顔を顰めながら、南雲を見やった後、「はぁ……」と、小さく諦めにも似た溜息を漏らす。それから、腰に手を当てると横に来た南雲の方を見た。
「それで、与市君は私に何か用でもあるのかしら」
そう尋ねると、南雲はきょとんっとして、一言。
「ううん? 莉紅見かけたから、声掛けなきゃって思って~」
「……」
この人は自分がORDERだという自覚はあるのだろうか……? そして、莉紅はそのORDER――というか、ORDERの所属している日本殺し屋連盟・通称「殺連」からの「特A級抹消対象」に認定されているのだが……。普通ながら命を狙われてもおかしくないのに、この男はまるで友達や恋人に会いに来たかのように、振舞っている。
「あの……」
なんだか、調子が狂う。警戒しているこちらが馬鹿みたいに思えてくるレベルだ。とりあえず……、と、ちらっといつの間に握られた手を見る。しかも、指を絡めて。
「手、離してくれないかしら」
そう莉紅が言うと、南雲がにっこりと笑った。
「嫌だって言ったら?」
「いや、そう言われても……」
困るんですが……。と、莉紅が眉を顰める。そんな莉紅を南雲はにこにこしながら見ている。――絶対私の反応見て楽しんでるわね……。そんな事を思いつつも、何故か手を振り払う気にはなれなかった。握られた温度が、昔の懐かしさを呼び起こす。彼と一緒にいた時間を――。それに、離そうとしても離してもらえそうにない。だからだろう。仕方なく、莉紅は諦めたように溜息をついて、そのまま歩き出す。すると、南雲が嬉しそうに隣を歩き始めた。
ただ、一緒に歩いているだけだというの、そんな嬉しそうにされると、正直、どうしていいのか分からなくなる。こうしていると、まだ、彼と「恋人関係」だったJCC時代に戻ったような気分になる。あの頃はよかった、まだ「楽しい」と思えたから――。
でも、今は……。
『――莉紅!』
そう言って、莉紅の名を呼んでくれた、碧色の髪に金の瞳の彼女の顔が脳裏を過る。赤尾リオン。JCC時代の莉紅や南雲・坂本の同期で、よく4人で連んでいた。彼女は破天荒な性格で、よく振り回されていたけれど、莉紅にとって、一番の「親友」と呼べる存在だった。
けれど――。
「……ねえ、与市君。リオンは――」
そこまで言い掛けて、言葉を切る。今、こんな事聞いても、意味はない。だって、彼女自身は、もう……。
「何でもないわ」
それだけ言うと、莉紅はその紫蒼玉の瞳で南雲を見た。それからくすっと笑みを浮かべ、
「……仕方ないから、少しだけ付き合ってあげる」
そう言って、にっこりと微笑む。すると、南雲が一瞬驚いたかのように、その黒曜石の瞳を瞬かせた後、嬉しそうに破顔した。
と、その時だった。何処からか美味しそうな肉汁と香辛料の匂いが漂ってきた。すると、南雲が「あ!」と声を上げた。
「ねえ、莉紅。お腹空いてない? この中華街美味しい肉まんがあるんだよね~」
「え?」
そう思う間もなく、南雲が「こっちこっち」と莉紅の手を引っ張って歩き始めた。
「ちょ、ちょっと、与市君!?」
莉紅が慌てて付いて行く。そして、連れてこられたのは、小さな屋台だった。でも、大繁盛しているのか、人がごった返している。その人の多さに、莉紅が唖然としていると、南雲が「ここで待ってて」と言って、莉紅を近くの椅子に座らせた。そして、その人ごみの中に入っていく。
「……」
莉紅が、小さく息を吐いて、机に肘を付くと、じっと南雲の入っていった人ごみを見た。見れば見る程、凄い人の数だった。そんなに人気商品なのだろうか。そう思っている時だった。南雲がひょいっと目の前に紙袋を持って戻ってきた。
「お帰りなさい」
莉紅が一応そう言うと、南雲が「ただいま~」と嬉しそうに笑う。そして、隣りの椅子に座ると、紙袋の中から大きな肉まんを取り出して、「はい」と莉紅にひとつ渡してきた。素直にそれを受け取ると、それだけで美味しそうで香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「美味しそう、ね」
思わずそう言ってしまうと、ぱくっと南雲はひと口食べながら、
「美味しいよ~。1日限定50個しか作られない、“神肉まん”だから~」
「え……」
限定50個って……。あの人の多さの中でよく買えたなっと思っていると、南雲がこちらを見て笑った。
「莉紅、食べた事なさそうだったから、絶対食べさせたくて」
そう言いながら、美味しそうに、ふた口目を頬張る。余りにもその姿が美味しそうだったから、別にお腹は空いていなかったが、莉紅も食べてみたい気分になった。
「えっと、じゃぁ……いただきます」
そう言って、渡された神肉まんの端を手でそっとちぎり、口に運んだ。すると、一気に口の中に豚肉や玉ねぎなどの具材の旨味が広がる。それでいて、あっさり塩味で、とても美味しかった。
「凄く、美味しいのね……」
余りの美味しさに、思わず感嘆の息が零れる。そんな莉紅を見て、南雲が嬉しそうに微笑んだ。その顔が余りにも優し過ぎて、胸の奥が不意に跳ねる。それを悟られたくなくて、莉紅は慌てて視線を逸らした。
――その時だった。
「莉紅――」
不意に、名を呼ばれたかと思うと、すっと南雲の手が莉紅の唇に触れた。一瞬、莉紅がぴくっと肩を震わせて、慌てて顔を上げる。すると、彼はにっこり微笑んで、
「口元に付いてた」
そう言って、莉紅の唇に触れていた指をぺろっと舐めた。その仕草があまりにも自然過ぎて、一瞬、何をされたのか、莉紅には分からなかった。けれど、すぐに顔がかあっと熱を帯び、言葉にならない声が喉から零れた。
「――っ!」
思わず顔を真っ赤にしたまま、口をぱくぱくさせてしまう。すると――。
ちゅっと、不意に唇に柔らかいものが触れたかと思うと、南雲の顔が離れていくのが見えた。そして、彼は自分の唇を舌で舐めながら、にこっと笑う。その仕草が、何だか凄く官能的で……思わず莉紅が硬直した。すると、南雲がその目を細めて、楽しげに笑う。そして、今度は両手で莉紅の頬を包み込むように触れると、そのまま――。
「え……?」
気づけば、唇が深く重なっていた。しかも、先程の軽い口づけとは違う、逃げ場のない深いキス。舌が侵入してきて、莉紅の舌に絡みつく。一瞬、莉紅には何が起こっているのか分からなかった。くちゅ……っと唾液の絡まる音が耳に響いてきて、莉紅の頭が真っ白になる。
「……っ、よい、ち……く……っ」
まさかの突然のキスに、莉紅の反応が遅れる。慌てて彼の肩を押すが、いつの間にか片手が腰に回されていて、びくともしない。触れた唇が熱い。意識が奪われていく。
「ま、待っ……」
周囲の視線が痛いほどに突き刺さる。しかし、南雲はそんな視線など全く意に介さず、莉紅の唇に角度を変えて何度も唇を奪った。莉紅が思わずぎゅっと目瞑ると、南雲は莉紅の口内を貪るように犯してくるではないか。舌を絡ませ、歯列をなぞり、音を立てては吸い付くようにキスをしてくる。
そして、ようやく唇が離れた時には、莉紅は息も絶え絶えで、座っているのがやっとだった。抵抗する気力すら湧かない程に。
「は……ぁ……な、ん……っ」
思わず、南雲の胸に寄り掛かってしまう。すると、そんな莉紅を見て微笑むと、南雲は彼女の耳元に唇を寄せた。そして――。
「可愛い」
そう言いながら、耳朶に軽く口づけられ、びくっと身体が震える。莉紅が慌てて耳を押さえた瞬間、さらに低く囁かれた。
「莉紅、好きだよ」
顔が一気に真っ赤になる。そして、ばっと慌てて耳を押さえたまま南雲を見た。彼は相変わらずの笑顔だったが、その黒曜石の瞳がとても真剣で……莉紅は思わず息を呑んだ。
「……っ、な、に言って……」
言葉が出ない。周りの喧騒が全て掻き消える。ただ、南雲の言葉だけが胸に響く。すると、南雲は優しげに目を細めて、そっと自分の胸元にいる莉紅の肩をその腕で抱き寄せてきた。
「何って? 僕は今でも君を“恋人”だと思ってるけど? 別れたつもりはないよ」
「え……」
彼は今何と言ったか。別れたつもりはない――? 莉紅は、思わず目を瞬いた。すると、南雲はそんな莉紅の髪を愛おしそうに優しく撫でながら、
「だって、僕はまだ君の事が好きだし……君も僕の事が好きな筈だよ」
「……っ、わ、私、は……」
言葉が出ない。否定しなければと思うのに、どう言葉を紡いだらいいのか分からない。まるで胸の奥の何かが、それを許さないかのように。
でも……。
ぐっと、莉紅は唇を噛む。すると、南雲が莉紅の髪を一房掴み、それを口元に寄せた。そして、その髪にキスを落とす。
「ねえ、莉紅。僕を見てよ」
あ……。
と、莉紅がその紫蒼玉の瞳を見開く。南雲がいつもとは違う目をしている。この目は知っている。これは……彼が“本気になった時”の目だ。その事に気づいた瞬間、莉紅は ばっと咄嗟に立ち上がった。そして、そのまま南雲から距離を取ろうとする。
だが――南雲も立ち上がり、莉紅の腕を掴むと、ぐいっと引き寄せた。そして、彼女の腰に腕を回して抱き締めると、その耳元で囁くように言ったのだ。それはまるで呪いの言葉のように。そして、莉紅の心を縛りつける言葉でもあった。
「――僕は君を離さない。絶対に。もう、1人にはしないよ」
「……っ」
あの日から――リオンが消えた日から、ずっと1人だと思っていた。1人で成し遂げなければならないと……。だから、私は……。
「ぁ……」
知らず、涙か零れた。それがどんな意味を成すのが。今の莉紅には分からなかった。けれど――。
“もう、1人にはしないよ”
その言葉が、酷く圧し掛かる。
駄目。駄目だ。1人で、戦うと決めたのに……南雲にそう言われると、決心が揺らいでしまう。
「与市……く……」
声が震える。頼れたらどんなに楽か――。彼の手を取って、言葉を受け入れられたら、どんなに心強いか。けれど……。
「大丈夫だよ、莉紅。君は何も心配しなくていいから。僕がついてる」
そう言って、南雲がその指で莉紅の涙を拭う。そして、その瞼に口付けを落とした。そして、にっこり微笑むと、そのまま彼女の手を引きながら歩き出す。
「……」
その手が余りにも温かくて、莉紅は振りほどく事が出来なかった。ゆっくりと目を閉じる。
今だけ……、もう少しだけ、このままで……。
そう――思わずには、いられなかったのだった。
2025.08.24

