深紅の冠 ~無幻碧環~

 

◆ love at first sight:third contact(hrhn)

 

 

―――私立・鳳皇女学院

 

 

「で、あるからして、ここの方程式は――」

 

講堂に女教師の声が響く。凛花はそんな教師の言葉を、心ここに非ずで聞いていた。ノートにペンを走らせる手も止まってしまう。まるで、何かに思いふけるように、ぼんやりしていて、時折、唇に触れては、顔を赤く染める。

 

そんな凛花の様子を、彼女の友人達はじーっと見ていた。

凛花自身はというと、そんな彼女達の視線にも気付けずにいて、浮かぶのはあの日の出来事ばかりだった。

 

先日、昼休憩中に男子禁制のこの学院に突然現れた五条。そして、そんな彼を助教授から隠す為に、慌てて隠れた。そんな時、偶然にも顔と顔が近くなり――キス、されたのだ。

 

事故だったならば、ここまで気にしなかったかもしれない。でも、それは事故などではなく、五条の意志によるものだった。

今でも唇に残る彼の温もりが、初めてだった凛花には刺激が強すぎて、忘れられずにいた。でも、彼は芸能人だ。もしかしたらキスなど挨拶程度で、左程気にしていないかもしれない。

 

「はぁ……」

 

思わず、溜息が零れてしまう。思い出すだけで、こんなに胸が苦しいというのに、五条自身は凛花のことを何とも思っていないかもしれない。そう思うと、また溜息が零れてしまう。

と、その時だった。不意に、隣に座っていた友人がぐいぐいっと凛花の袖を引っ張ってきた。凛花が不思議に思いそちらを見る。すると彼女は耳打ちするように、

 

「ねえ、凛花。この間から様子おかしいけど、なにかあった?」

 

「え……」

 

唐突にそう聞かれ、凛花がぎくりと顔を強張らせる。それから、かぁっと顔を赤くして、慌てて首を横に振った。

 

「な、何もない、け……れど……」

 

なんとかそう答えるので、精一杯だった。だが、そんな答えで友人が納得する訳が無く、彼女が凛花の様子を見て、にやりと笑った。

 

「は、はーん。さては、“男”だな」

 

「……っ」

 

まさかの、彼女の言葉に凛花の顔が一気に朱に染まる。その反応を見て、彼女はしたり顔になると、凛花にぐっと顔を寄せた。そして小声で、

 

「凛花が男の事考えてぼぅっとしてるとか、珍し—。ね、ね、どんな人? かっこいい? 年上? どこで知り合ったの?」

 

と、質問攻めである。凛花がどう答えていいのか分からず、困惑していると、彼女はうんうんと頷きながら、

 

「絶対、相手はイケメンだよね。凛花の基準って高そうだし~」

 

「な、何を根拠に……」

 

「え~? だって、凛花のお兄さんも、お父さんもすっごいイケメンじゃん? そんな人に普段から囲まれてるのに、その辺の男で満足する訳ないよね~。それこそ、“はらほん”の五条悟クラスじゃないとー」

 

「……」

 

その五条悟さんなんですが……。とは口には出来ず、凛花は苦笑いを浮かべるしか出来なかったのだった。

 

 

 

 

*** ***

 

 

 

 

 

―――夕方・某TV局前

 

 

授業の後も友人に詰め寄られて困っていたのだが、突然、兄の昴かメールが入ったのだ。

なんでも、大事な契約書を実家に忘れてきてしまったのだという。しかも、その契約書は今夜必要だが、忙しくて取りに戻れない為、凛花に持ってきて欲しい――という内容だった。

 

昴は、五条達“祓ったれ本舗”のマネージャーをしている。それに事務所の社長秘書もしていると言っていた。恐らく、そっちの仕事関係で必要な契約書なのだろう。

“祓ったれ本舗”は今人気絶頂の漫才コンビで、そのマネージャーの昴が忙しいのも頷けた。

 

凛花はチャンスとばかりに、兄に頼みごとをされたと言い、友人達から逃れる様に、学院を後にしたのだった。

そして、一度実家に戻ると、そのまま指定された場所に来たのだが……。

 

「……」

 

TV局の前は、大勢の女性でごった返していた。そういえば、今日は生放送の番組でこのTV局に来ていると言っていた。だから、ここに“祓ったれ本舗”の2人がいる事は周知の事実で――所謂これは、「出待ち」というやつなのだろう。

ここにいる女性達は、皆、五条や夏油に会いたくて、来ているのだ。そう思うと、知らず胸の奥がちくりと痛んだ。

 

「……」

 

凛花が無意識に唇を噛む。この光景が、なんだか嫌だった。彼女達の様に、自分に自信があって、堂々と五条に会える女性が羨ましく思えた。凛花にはそんな事出来ないから……。

だが、いつまでもここにいる訳にもいかないので、意を決してTV局の中に入ろうとしたのだが――その時だった。突然背後から声を掛けられたのだ。

 

「ねえ」

 

「え?」

 

振り返ると、そこには見知らぬ男が立っていた。彼は特徴的なサングラスをしていて、その奥の瞳が見えない為、表情は分からないが……どこか不機嫌そうであった。

一体何の用かと凛花が訝しんでいると、男が名刺を差し出してきた。それは有名な出版社のもので、男は編集者だと名乗ったのだ。

 

「実はさ、君に聞きたい事があるんだよ。君、“はらほん”のマネージャーの妹ちゃんだよね?」

 

そう言って、男は突然凛花の手を掴むと、引っ張ったのだ。

 

「きゃ……っ」

 

急な事に対応出来ず、凛花が態勢を崩しそうになる。だが、男は構わず、凛花の手を掴んだまま、歩き出したのだ。

 

突然の事に、凛花は訳も分からずに何処かへ連れて行かれそうになる。だが、ここで連れ去らわれれば五条達に迷惑が掛かってしまうと気付き、慌てて抵抗したのだが……男はそんな凛花をものともせず、どんどん早速足で歩いて行くのだ。

 

「離っ……離して下さい……っ」

 

なんとかしようと凛花がもがくが、男の手はびくともせず、凛花を離す気配すらない。いや、むしろ余計に力を入れられて引っ張られたあげく、目の前にあるワゴン車に強引に押し込まれそうになった。

 

「……や……っ、五条さ――」

 

怖くなって、堪らず五条の名を呼んだその時だった。不意に背後から別の手が伸びてきて、男の腕を掴んだかと思うと、そのまま男を殴り飛ばしたのだ。

 

その衝撃で、男がワゴン車に叩きつけられる。

 

え……?

 

驚いて凛花が振り返ろうとした瞬間――ぐいっと誰かに抱き寄せられた。それは、とても暖かい温もりだった。凛花の良く知る、彼の体温で――。

 

おそるおそる顔を上げると、そこには五条が立っていたのだ。彼はいつもの黒いスーツ姿ではなく私服姿だったが、そのサングラスだけは変わらずに付けていて……。そして、その瞳が怒りを宿して男を見ていたのだ。

 

男は五条の一撃を受けて、胸元を押さえて咽ていた。そんな男を冷たく見ながら、五条は凛花を抱き寄せたまま、男に向かって、

 

「おい、オマエ。俺の凛花に何してんだよ?」

 

そう、低い声で吐き捨てたのだ。その声音は普段とは全く違っていて……怒っているのがよく分かった。

 

だが、そんな五条に対し、男は怯えた様子もなく、立ち上がって服の汚れを払う仕草をしてから、特徴的なサングラスを外しながら、にやりと笑ったかと思うと、とんでもない事を言い出したのである。

 

「へぇ、あの“祓ったれ本舗”の五条悟が、こんなことしていいんですかい? しかも、一般人に手を上げるなんて。ああ、でも、出てきてくれて助かったかな。やっぱり妹ちゃんに付きまとってたんだ」

 

「え?」

 

「は?」

 

凛花と五条の声が重なる。一体この男は何を言っているのかと、凛花は困惑した。すると突然五条の声が一等低くなったかと思うと、ピリッと空気が震えたのだ。

 

「……オマエ、何言ってんだ? “付きまとう”って何だよ」

 

「だってさ、君、自分のとこのマネージャーの妹ちゃんに、ちょっかい出してるでしょ? 彼女、迷惑そうにしてるのに」

 

にやにやと笑いながら彼がそんな事を言ってきて、凛花は酷く困惑してしまった。一体この男が何を言っているのか分からなかったのだ。

だが、そんな凛花の様子とは裏腹に、五条の気配が一気に怒気を孕むのが分かった。彼は今までにないくらい不機嫌な声で、男に向かって、

 

「おい、オマエ。さっきからなに訳分かんねー事言ってんだよ。勝手な想像で喋ってる暇があるなら、テメーの心配した方がいいんじゃねえの。てか、オマエ如きが凛花の事知った風に言ってんじゃねぇよ。胸糞わりぃ」

 

「五条さ……」

 

「行こうぜ、凛花。昴に用があって来たんだろ?」

 

そう言って凛花の肩を抱くと、五条はそのまま凛花を連れてTV局の裏口から中へと入っていったのだった。

 

 

 

 

*** ***

 

 

 

 

五条に連れて来られたのは、TV局内にある楽屋だった。既に昴の姿はなく、室内にはスタッフや関係者が忙しそうに動き回っているのが見えた。

そんな彼らを横目に見ながら凛花は、五条に連れられるまま楽屋へと入っていくと……そのままソファに座らされた。そして五条も隣に座ると、じっと凛花を見てきたのだ。

 

彼が相変わらず不機嫌な様子で、じーっと見つめてくるものだから、凛花は居た堪れなくてつい俯いてしまった。するとそんな様子の凛花に気付いたのか、五条がふっと苦笑いを浮かべた後、

 

「わりぃ、変なのに巻き込んじまって。平気か?」

 

そう言って、そっと凛花の髪に触れると、優しくその頬を撫でた。その声音は、先程までの怒気を含んだものとは違い、いつもの優しい彼のものだった。

凛花はおずおずと顔を上げて五条の顔を見る。すると、彼は困った様な表情をしていて、でも何処か優しげな眼差しで凛花を見つめていたのだ。

 

そんな彼の様子に、凛花は思わずどきっと胸が高鳴るのを感じた。だがそんな動揺を悟られまいとしながら、慌てて視線を逸らす。

 

「あ、あの……、助けて下さって、ありがとう、ございま、す……」

 

そう言うのが、精一杯だった。すると、五条が一瞬だけその碧色の瞳を瞬かせたかと思うと「なぁ」と突然声を発したかと思うと――。

 

「キス、していい?」

 

 

 

「………………え?」

 

 

 

一瞬、凛花は五条が何を言ってきたのか理解出来なかった。キス――と彼は言っただろうか? ここで? この大勢の人がいる前で?

そう思った瞬間、凛花の顔が一気に真っ赤に染まった。まさかそんな事を聞かれるとは思っていなくて、思考がパニックになる。

 

「いいだろ? 凛花に今、すげーキスしたい」

 

「……や、あの……それ、は……」

 

だがそんな凛花にお構いなく、五条の手がそっと凛花の顎に添えられると、そのままくいっと上に持ち上げられた。そしてそれと同時に彼の整った顔が近付いて来るのを見て――凛花は咄嗟に目を瞑ってしまったのである。

すると次の瞬間には五条の柔らかい唇が重ねられていて――まるで掠める様なキスだったけれど、それでもその熱はしっかりと伝わってきた。

 

それはほんの数秒の出来事だったが……凛花はそれだけで頭が真っ白になってしまいそうだった。

だが、それだけでは終わらなかった。再び重ねられた唇に、凛花がぴくんっと肩を震わせた。

 

「……ぁ……ご、じょう、さ……っ、待っ……ンン……っ」

 

キスの曖昧に、零れる吐息に混じって凛花が彼の名を呼んだ。だが、それでも五条は止めてくれなくて……それどころかより深く口付けられて――何度も角度を変えながら繰り返されるそれに、凛花は段々と頭がぼうっとしてきてしまったのである。

 

解放される頃には、もう息も絶え絶えになってしまっていた。そんな凛花を愛おしげに見つめると、彼はそっと凛花の耳元に唇を寄せると囁いたのだ。

 

「好きだよ、凛花……」

 

そのたった一言だけで、凛花の心臓は破裂しそうなほど鼓動を刻んでいく。凛花は、顔が熱く火照っていくのを感じながら……結局、何も言えなくなってしまったのだった。

 

 

 

その後――。

夏油を連れて戻って来た昴が2人の様子を見て、ショックを受けていた。

 

「凛花が……俺の可愛い凛花があああ~~~~」

 

と、泣きながら、凛花の持ってきた契約書を受け取っている。だが、五条はというと、けろっとした顔をして、凛花の腰に手を回すと、そのままぐいっと自身の方へと引き寄せていた。

 

「こら――!! 悟!!! うちの凛花かから離れろぉおおおおおおお!!!!!」

 

と、昴が叫んでいたのは言うまでもなく。そして、そんな昴を夏油が「まぁまぁ」と落ち着かせていたのは最早、恒例行事化しそうな勢いだった。

 

五条はと言うと、そんな昴を完全スルーして、凛花を更に抱き寄せると、ちゅっとその瞼に口付けを落としながら、

 

「こいつ、俺が貰うから」

 

そう言って、にやりと笑った。それを見た昴がぷるぷると身体を震わせたかと思うと……、

 

「お……」

 

「お?」

 

 

 

 

「お兄ちゃんは……お兄ちゃんは、まだ許さないからなあああああああ!!!!!!」

 

 

 

 

と、叫んでいたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.04.05