深紅の冠 ~鈺神朱冥~

 

 第1話 紅玉 19

 

 

―――都内・神妻家本家 “神命の間”

 

 

“神命の間”は、神妻家の本家内で絶対的地位のある凛花の父であり、神妻家現当主・神妻零你の命なくば絶対に開放されることのない部屋だった。

“神命”――それは、神の命令や神勅を意味する言葉であり、この場合の絶対的“神”とは零你の事を指す。それはつまり、零你から招かれたものへと拒否不可能な“命令”を下されることを意味する。

 

はっきり言って、呪術界上層部のじじいどもにすら従う事のない五条にとって、不愉快極まりない場所だった。これが凛花の父でなければ、ぶっ潰している所だ。

 

そうしている内に、“神命の間”の前まで辿り着く。戸には神妻家の印とされる、突伽天女ドゥルガーの紋が描かれていた。

ドゥルガーとは、ヒンドゥー教やインド神話の女神であり、その名は「近づき難い者」を意味する。デーヴァ神族の要請によってアスラ神族と戦ったドゥルガーは、シヴァ神の神妃でもあった。

その容姿は優美で美しいが、実際は恐るべき戦いの女神なのである。複数の腕にそれぞれ神授の武器を持ち、ライオンに乗る姿で描かれるそれは、まさに戦女神そのものだった。

 

その突伽天女が、この神妻家の印であり、凛花も持つあの深紅の「紅玉眼」にも刻まれているのだ。そして――それを持つ者は、凛花だけではない。神妻零你も、凛花程紅くないが同じ、「紅玉眼」を持つといわれている。その上、霊獣・霊狐をも操る厄介な相手だ。出来る事ならば、関わり合いになりたくない人間、No.1である。

恐らく、零你と五条が本気で殺り合えば、被害が恐ろしい事になるのは目に見えていた。だが――。

 

ぐっと、五条が握っていた拳に力を籠める。凛花にもし、万が一何かあれば、それが零你相手だろうと、引くつもりはなかった。

 

“神命の間”は何層かに分かれており、牧田は入り口まで案内した後、それ以上は入れないらしく数歩後ろへと下がって、頭を垂れる。

 

「この先は、五条様のみでお進み下さい」

 

「……」

 

五条は牧田に一瞥だけ送ると、そのまま問答無用で目の前の戸を横に思いっきり開けた。そして、そのままずかずかと入っていく。中はしん……と静まり返っており、人の気配すら感じない。だが――一点だけ、奥の方の部屋から、嫌な気配を感じる。恐らくそれが零你だろう。

しかし、五条は気にする様子もなく、次から次へと戸を開けていく。そして――最後の戸の目の前に来た瞬間、その動きを止めた。

 

見ただけで分かる。目の前の戸には結界が施されていたのだ。それも、強力な反射の結界が。

 

「……どうせ、こんなことだろうと思ったよ」

 

もし、最初の戸で「赫」でもぶっ放して、一気に通ろうとすれば、この結界に阻まれ「赫」が五条に反転して戻ってくる仕組みになっていたのだ。

五条は、表情ひとつ変えずにそのまま戸へ手を伸ばす。刹那、ばりばりっ!と手を阻む様に呪力が走った。だが、五条はそれを無視して無理矢理、戸を開け放つ。すると、視界に部屋の上座に立っている男の背中が入った。神妻零你だ。

 

「そっちから呼びつけておいて、随分な挨拶だな。零你さん」

 

五条がそう吐き捨てる様に言うと、ゆっくりとした動作で零你が振り返った。凛花程ではない紅い瞳が五条を射抜くように見ると、ふっと不敵に笑う。

 

「思ったよりも早いな、五条君。もう少し時間が掛かるかと思っていたが……」

 

「これでも、“最強”なんで」

 

喧嘩を吹っ掛けるようにそう返す五条に、零你が一瞬その紅い瞳を見開いた。そして、表情ひとつ変えずに、口元だけでふっと微かに笑うと「そうか」とだけ答えた。だが、五条にはそんな事どうでもよかった。

 

「凛花を何処にやった」

 

そう言った五条の声は、酷く鋭かった。まるで、人でも殺しそうなその声音に、零你が面白いものを見たかのように、くっと喉の奥で笑う。そして、何でもない事のように、

 

「さぁ、何処だろうな」

 

と、さもどうでも良さげに言ったのだ。零你のその言葉に、五条の六眼が鋭く光る。だが、零你は気にした様子もなく、五条をその紅い目で見ると、こう言ったのだ。

 

「五条悟――盟約を破った理由を述べよ」

 

「……」

 

「我ら神妻の“神域”には六眼では関与しない――。それが、神妻と五条家の昔からの盟約だ。だが、貴様は先の折にその盟約を反故にした。それ相応の理由があっての事だろうな」

 

神妻家相伝の“神域”といえども、六眼に掛かれば全て看破される。しかし、“神域”にはまだ謎も多く、その全ては呪術界でも解明されていない。分かっているのは、「神妻の血」ともう一つ――相伝でのみで稀に発現されるといわれている呪眼「紅黎せきれい」が必要なのだ。別名、「紅玉眼」と呼ばれるそれには、神妻の印である突伽天女の印が刻まれているという。そして、それは紅ければ紅いほど、力が強力になるという。

 

秘密主義――そう言えば、一番理解しやすいのかもしれない。

 

神妻は特に“神域”に関しての情報の開示を一切しない。その為、呪眼「紅黎」を受け継いだ後継となる者は基本、呪術界と関係を持たない。呪術師として基盤となる呪術高専にも関わらず、一歩離れた場所で存在しているのだ。

 

今代、神妻で「紅玉眼」を持つのは、凛花と零你の2人のみ。残念ながら、凛花の兄である死んだ昴には発現しなかった。その代わり、昴は呪術に関しては群を抜いていた。それ故に、彼は神妻では異例の呪術高専へと入学をしたのだ。普通の呪術師・・・・・・として――。

 

そんな神妻が、初めて外界に興味を示したのが「五条悟」だった。数百年ぶりに呪術界御三家・五条家相伝の術式「無下限呪術」と、原子レベルの緻密な呪力操作を可能とする特異体質「六眼」を併せ持って生まれた現代最強の呪術師。誕生と共に「世界の均衡バランス」さえ、変えてしまった異彩。

 

丁度、時同じくして神妻に男児1人が産まれる。しかし、その男児には呪眼「紅黎」は受け継がれなかったのだ。そして、「五条悟」が誕生して5年後――呪眼「紅黎」を持つ女児が誕生した。その瞳は稀に見る「深い紅」を宿していた。ここまで「深い紅」の「紅玉眼」を持つ者は、平安時代に存在していた、「神紅しんくの姫巫女」と呼ばれた彼女・・以降初めてだったのだ。それが凛花だった。

 

五条家の「無下限呪術」と「六眼」を併せ持つ五条悟と、「神紅の姫巫女」と同じ深紅の呪眼「紅黎」を持つ凛花。その2人が同時代に生まれるというこの事実に、呪術界が震えたのは当然で――番として合わせれば、より強力な呪術師が生まれる可能性を秘めていると思うのは必然だった。

そうすれば、その子を自分達の思いのままにしてしまおうという思惑と同時に、今まで謎に包まれていた「神妻」の中枢に入る事が可能になるのだ。呪術界上層部の連中が考えそうな事は、容易に想像付いた。

 

それ故に凛花が生まれた時「神妻」は「五条家」と、ある“密約”を交わした。上層部の思惑通り「婚約」はするが――神妻の“神域”に付いては一切関与してはならない、と。そして、「婚約」もあくまでも上層部を油断させる為の「形式的」なものであり、本当に子を成す事はしない――と。「五条家」もそれに同意したのだ。

 

その筈だった。それで全て収まると思っていた。――実際に五条と凛花が出逢うまでは……。

 

最初のきっかけは、凛花の兄・昴が呪術高専で五条の友人になった所からだった。昴は5歳下の凛花を溺愛しており、彼女の写真を常に持ち歩いて、友人達に自慢していたという。

その話を知った時、零你は一抹の不安を覚えた。だが、その時五条は高専に通う青年。凛花は別の学院の初等部に通う幼い少女だった。歳にすれば、15・6歳の五条が、10歳足らずの凛花に興味を持つ筈がないと思ったのだ。だから放任していた。そう――問題ない筈、だった。

 

だが、数年後事態は一変してしまった。

 

気付けば、五条の意識は凛花に向けられていた。そして、凛花も――。

凛花が高等部を卒業すると同時に、「正式」に婚約の話が持ち上がった。だが、零你は何処か心の片隅で疑っていた。所詮は若気の至り。気の迷い。そんな風に思っていた。そしてそれは、3年前の昴のあの事件をきっかけに、凛花が婚約破棄を言い出して、やはりなと思ったのだ。だから、五条もその程度だろうと思っていた。そう――思っていた。

 

「どうした? それとも、元々それ・・が目的で凛花に近付いたか」

 

神妻の“神域”を暴く――もし、その為に、凛花に近付いたのであったならば……。そう零你が思っていた時だった。五条の顔が今までにない位険しくなった。

 

「……それ、本気で言ってんのかアンタ」

 

数トーン低い、ドスの聞いた声が部屋の中に響き渡った。ゆらりと五条が零你に近付くと、無理矢理その襟首を鷲掴みにして、

 

 

 

「凛花が危ない目に遭ってる時に“盟約”もクソもあるかよ! そこが“神域”の中だろうと、地獄の果てだろうと行くに決まってんだろうが!!」

 

 

 

「……」

 

零你は無表情のままだった。小さく息を吐くと、少しだけその紅い瞳を動かし、

 

「……理解出来んな。何故、そこまで凛花に執着する。貴様に何のメリットがある」

 

「はっ! 損得でしか動かねぇアンタには理解出来ないかもな。もう、そういう次元の話じゃないんだよ。アイツが望めば、俺はアンタでも殺せる」

 

そう言った五条の瞳は、それだけで射殺せるぐらい本気の目をしていた。零你は、やはり小さく息を吐くと、自身の襟を掴んでいる五条の手を弾いた。それから、何事もなかったかのように、襟元を整えると五条の方を見る。

 

「やはり理解出来ん。私を殺しても、百害あって一利なしだというのに、何が貴様をそこまで言わせる」

 

零你のそんな言葉に、五条は鋭い視線を向けたまま吐き捨てる様に、

 

「――そんなの、凛花を愛してるからだ……っ。一番大事だからに決まってんだろうが! アイツのいない世界なんて興味はない!!」

 

「……」

 

何故――。と、零你は思った。愛だの恋だの、そんな不可解な感情に左右されて動けば、どうせ、待っているのは最悪の事態だ。呪術師であるならば、尚更だ。常に「死」との隣りあわせのこの世界で、くだらない感情に任せて動く理由はない。

婚姻も血を残す為だけの行為であり、感情など必要ない。特にそういう感情は足枷にしかならないからだ。

五条家の当主ならば、それぐらい分かっていると思っていたが――。

 

「……見込み違いか」

 

小さな声で、零你がそう呟いた時だった。五条はさもどうでもよさそうに、

 

「アンタの考えなんてどうでもいいんだよ。俺とアンタは違う。アンタには必要ないものかもしれないけどな。俺はそうは思わない――それだけだ」

 

「……」

 

「話はそれだけか? だったらさっさと、凛花を返せ。凛花を何処に隠して・・・やがる」

 

「……」

 

 

 

 

 

 

      ◆      ◆

 

 

 

 

 

 

 

「……ん……」

 

頭がぼんやりする。視界がはっきりしない。凛花は、朧気な記憶を手繰るように、ゆっくりと身体を起こした。辺りを見渡すと、灯りひとつなく真っ暗だった。だが、そこは狭く、あまり広さはない空間のようだった。それに――地面や横に触れると、冷やりとした岩肌の感触があった。

そして、馴染む様な知っているこの感覚。それは“神域”と同じだった。という事は……。

 

「ここは、お父様の作った“神域”の中……ね」

 

基本、「紅玉眼」があれば“神域”に干渉出来る――が、それはあくまでも自分よりも下位の“神域”だ。ここまでのレベルの“神域”となると、今の凛花では干渉出来なかった。

しかも――。

 

「一層じゃなさそう……」

 

軽く見積もって“神域”が三重に掛けられていそうだった。つまり、完全に外界と遮断されているのである。それにこの“神域”は恐らく……。

 

「“天岩戸あまのいわと”を主軸に、周りに“天石門別あめのいわとわけ”と“布刀玉ふとだま”ね」

 

“天岩戸”はその名の通り、“天岩戸伝説”で八百万の神々の中でも最高位に位置する太陽の女神“天照大御神”が、お隠れになったとされる岩で出来た洞窟である。そして、その“天岩戸”の守護神である“天石門別”と、“天岩戸”から“天照大御神”が引っ張り出された後、岩戸に注連縄掛け封印したという“布刀玉”。所謂二柱とも「守護」の神である。

 

“神域・天岩戸”鉄壁の封印術だ。これに、守護を司る“神域”を2つも掛けられては、凛花では手も足も出ない。というよりも、ここまで厳重に封印を施すような荒業を、あの一瞬でやってのけてしまう零你の呪術の練度が恐ろしい。

 

「どうしたら……」

 

おそらく、現世では凛花の存在は今消されている・・・・・・。ただ、ここで手をこまねいてる訳にはいかない。万が一を考えて、五条にはあの鈴を渡してあるが……。

 

「悟さん……気付くかしら……」

 

零你が術を解く以外でここから出られる唯一の方法――それは……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2025.03.23