◆ 第1話 紅玉 15
―――呪術高等専門学校・東京校 グラウンド
「おっせえよ、恵」
「こんぶ」
伏黒がジャージに着替えて高専のグラウンドに向かうと、先に来ていた真希達が遅れてきた伏黒を見てそうぼやいた。
見ると、真希も狗巻もしっかりジャージを着ている。
トラック側を見ると、何故か制服姿の釘崎がパンダに追いかけられていた。
「?」
伏黒が訝しげに首を傾げると、真希がとんとんっと練習用の長い棍棒で自身の肩を叩きながら、
「何してた」
そう尋ねてくる。
伏黒は少し口を噤んだ後、ジャージの上着のジッパーを上げる仕草をしてから、小さく息を吐いた。
「……何でもいいでしょ」
岡崎家に行った事は、真希には関係のない話だ。
それに、あの謝罪は自分のエゴの為でもあった。
だから、ここで切り出すのは気が引けた。
そこまで考えて、脳裏のあの岡崎正の母親の泣き顔が浮かんだ。
それから、笑って逝った虎杖の顔も――。
自分は、虎杖が宿儺の指を飲み込んだ時、五条に虎杖を助けて欲しいと頼んだ。
五条は、それを「私情?」と尋ねてきて、伏黒は はっきりと「私情です」と答えた。
そう――「私情」だった。
本当ならば、呪術規定に則り虎杖は処刑しなければならなかった。
でも、死なせたくなかった。
自分の身を顧みず、宿儺の指まで飲み込んで伏黒を助けてくれた虎杖を――。
けれど、虎杖は結局死んだ。
伏黒を庇い、助ける為に、生にしがみ付かなかった。
もし、逆の立場だったら――俺はどうしていただろうか……。
「……禪院先輩は……」
これを聞いていいのか、聞かない方がいいのかは分からない。
分からないが――。
「……呪術師として、どんな人達を助けたいですか?」
その質問は何となく出たものだった。
恐らく、今、伏黒の中で一番大きな「疑問」だったからかもしれない。
だが、真希はそんな伏黒を知って知らでか、訝しげに眉を寄せると、
「あ? 別に、私のお陰で誰が助かろうと、知ったこっちゃねぇよ」
「……」
真希の淡々とした答えに、伏黒が今度こそ顔を顰めた。
そして、ふいっと視線を逸らすと、ぼそりと小さな声で、
「……聞かなきゃよかった」
「あ‟ぁ?」
と、その時だった。
「伏黒ぉ!!!」
突然、トラックの方から釘崎の叫び声が聞こえてきた。
何かと思ってそちらを見ると、釘崎がパンダに足を掴まれてブンブン横に振り回されながら、
「面接対策みたいな、質疑応答してんじゃないわよ!! 交代!! もう学ランはしんどい!! 可愛いジャージを買いに行かせろおおおおおおお!!!!」
と、叫んでいた。
そのまま、ぽーいと釘崎がぶん投げられる。
それを見て、伏黒が一言。
「……あの2人は、何してんですか?」
と、半分呆れながらぼやくと、パンダがさも当然の様に、
「受け身の練習」
「たかな」
「オマエらは、近接弱っちいからなぁ」
と言っているが……。
釘崎は、とても受け身をしている様には見えなかった。
すると、横にいた真希がヒュンっと持っていた長い棍棒を器用に回しながら、
「まあ、まずは――」
そのまま、ビュンっと棍棒を構える。
そして、左手を手招きする様に、動かしながら――、
「私らから、1本取れ。話はそれからだ」
そう言って、にやりと笑ったのだった。
◆ ◆
―――五条家本家 桜田屋敷
「……」
凛花がゆっくりと目を覚ますと、窓から西日が差し掛かっていた。
ぼんやりする頭のまま、何とか重い身体を起こす。
「私……」
あの後、どうしたんだっただろうか……。
朧気な記憶を何とか呼び覚まそうとするが、頭がすっきりしない所為か、よく思い出せない。
だが、身体は覚えているのか、あちこちが痛く、ずっしりと重かった。
ああ、そうだわ……。
あの後――悟さんに……。
「……」
そこまで考えて、凛花は思わず顔を突っ伏す様に手で覆った。
こんな明るい時間から……。
しかも、本家でだなんて……駄目過ぎるわ……っ!
流された自分も自分だが、五条も五条である。
あれだけ拒んだのに……「おしおき」だと言って止めてはくれなかった。
それどころか、いつも以上に――。
「……やめよう」
考えるだけ、もう後の祭りだ。
それに、結局は許してしまう自分がいけないのだ。
自分と五条はもう、“婚約者”でも何でもないのだから。
なのに、こんな関係おかしすぎる。
と、凛花は思うのだが、五条はそうは思ってはいない様で……。
「悟さんにとって……」
私は、未だ“婚約者”のままなのだわ……。
そう思うと、知らず何故か心の中がほっとした。
おかしな話だ。
拒んだのは自分なのに、彼の中で自分の位置が今も変わらない事に、ほっとしている。
口では違う、関係ないと言っておきながら、変わらず接してくれる五条に心惹かれている。
頭では分かっている。
本当は、私は悟さんの事が……。
そう――頭では分っているのだ。
今も、昔と変わらず五条に惹かれている事に――。
でも、心が付いてこない。
“あの事件”を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
勿論、あれは五条が悪かったのではないのは分かっている。
けれど――誰かを……五条を、恨まずには、憎まずには、いられなかった。
そうする事で、自分を必死に保った。
でなければ、きっともう凛花の心は壊れていただろう。
それと同時に、その考えが“間違っている”事も分かっていた。
分かっていたけれど――。
「はぁ……」
凛花は小さく息を吐くと、シーツを手繰り寄せそのまま羽織った。
流石に、凛花以外誰もいないとはいえ、何も身に着けていないまま歩くのは憚られた。
と、その時だった。
部屋の戸の方から誰かの話声が聞こえてきた。
その声は、先程まで寝所の中で凛花の名を優しく呼んでいた声だった。
「悟さん……?」
凛花が声に惹かれて、そっと部屋の戸の方を見ると、五条が夜着姿で女中と何かを話していた。
何の話をしているのかと、思わず凛花が顔を覗かせた時だった。
不意に、五条が凛花に気付き、振り返ると、
「おはよう、凛花ちゃん」
そう言って、優しげに笑った。
その笑顔が余りにも綺麗過ぎて、凛花が思わず息を吞む。
すると、五条は女中に何かを指示した後、凛花の元へやって来た。
「あの……」
凛花が声を発しようとしたが、何故か五条の手が伸びてきたかと思うと、そのままぎゅっと抱き締められた。
「さ、悟さ……っ」
突然の抱擁に、凛花が顔を真っ赤にする。
慌てて離れようとするが、がっちり腰を掴まれていて、びくともしない。
そんな凛花を見て、五条はくすっと笑うと、そっと彼女の耳元に唇を寄せ、
「こんな事で照れてるの? さっきまでもっと凄い事してたのに」
「……っ」
五条のその言葉に、今度こそ凛花はこれでもかという位、顔を真っ赤に染めた。
何か言いたいのだが、言葉にならない。
口をぱくぱくさせていると、五条が優しく頭を撫でてきた。
「大丈夫だよ、今は何もしないから」
そう言って、にっこりと笑う。
それから、持っていた夜着を凛花に差し出してきて、
「これ、凛花ちゃんの着替え―――」
五条がそこまで言った瞬間、凛花が慌ててそれをひったくる様に奪うと、そのまま奥の部屋へと逃げていった。
そんな凛花の様子に、五条がまたくつくつと笑うのだった。
**** ****
「えっと、これは……」
凛花が夜着を着て戻ってくると、五条の部屋の中で女中が2人せかせかと、五条と凛花の夕餉の用意をしていた。
2つ並んだ膳の上には、だし巻き卵や、暖かそうな汁物、そして鯵の塩焼きや、お浸しなどもある。
女中が五条の横で、櫃から米をよそっていた。
「ああ、凛花ちゃん。こっちこっち」
凛花に気付いた五条が手招きしてくる。
何だか少し行き辛そうにしていた凛花だか、諦めたのかそっと五条の隣に用意された席に座った。
すると、五条が嬉しそうに笑う。
それが、余計に恥ずかしくなり、凛花がそのまま俯きそうになった時だった。
「では、悟様。私達はこれで失礼致します」
「ああ、ご苦労様」
女中がそのまま退出していく。
五条と2人、部屋に残された凛花はどうしていいのか分からず、顔を上げられずにいると――ふと、五条が凛花の顔を覗き込むようにしてきて、
「凛花ちゃん、お腹。空いてなかった?」
「え……っ」
突然そう尋ねられて、凛花が慌てて声を上げてしまう。
それから、少しだけお腹を押さえて、
「す、空いてますけれど……」
と、言うと、五条が「だよね」と五条が笑いながら言う。
そして、自分の膳にある箸を持つと、だし巻き卵を挟み――何故か、凛花の方に差し出してきたのだ。
「はい、凛花ちゃん。あーん」
「えっ!?」
驚いたのは、他でもない凛花だ。
まさか五条自ら、そういう事をしてくるとは思いもせず、どう反応していいのか迷ってしまう。
すると、五条が急かす様に、
「ほら、口開けて」
「え……、で、でも……」
「何? 僕の手ずからじゃ嫌?」
「そ、そういう、訳……で、は……」
「それなら良かった。はい、あーん」
うう……。
これは、何の辱めなのだろうか。
そう思いながら、観念したかの様に凛花がおずおずと口を開けると、そっとそこへ五条がだし巻き卵を差し入れた。
程よい出汁の味が沁みている、ふわっとした触感の卵が口の中で溶けていく。
「……っ、美味しい……」
凛花が思わずそう洩らすと、五条が嬉しそうに笑った。
「それなら、よかった」
そういう風に言われると、なんだか緊張しているのが馬鹿馬鹿しく思えてきて、凛花はくすっと笑みを浮かべると、
「ふふ……、悟さんが作った訳じゃないのに、嬉しそうなんですね」
そう言うと、五条がさも当然の様に、
「そりゃぁ、僕の家の料理人が作ったものだからね」
と、誇らしげに言うその姿が、子供の様に見えて、凛花はまた笑ってしまった。
そんな凛花に、五条が少しだけ覗き込むように見てくる。
そして、悪戯っ子の様に、
「じゃぁ、今度は凛花ちゃんが食べさせてよ」
そう言って、自身の口元を指さした。
瞬間、凛花が「え……」となるが、少し考えた後、
「えっと、その……は、恥かしいので……今回だけ、で、すよ?」
そう言うと、膳を見て少し考える。
どうせなら、好きなものを食べてもらいたい――そう思ったが、甘党の五条が喜びそうな料理はデザートに添えられていた、桃ぐらいしか浮かばなかった。
凛花は迷ったが、桃の乗せられた皿を取ると、そっと楊枝を指して、それを五条に差し出す。
「ど、どうぞ……」
おずおずと差し出すと、五条がその桃を見て嬉しそうに笑った。
「流石は凛花ちゃん。僕の好み良く分かってるね」
そう言って、五条が凛花の差し出した手を握ると、そのまま桃の果肉を自身の口に運んだ。
そして、ぱくっと食べると、
「うん、やっぱりこの時期の桃は美味しい。――凛花ちゃんも食べるでしょ」
そう言ったかと思うと、五条は何故か自身の膳の桃を口の中に放り込んだかと思うと、ぐいっと凛花の腕を引き寄せた。
「きゃっ……」
突然引っ張られて、凛花が思わず体勢を崩しそうになる。
が、五条は気にした様子もなく、凛花の腰に手を回すと――、
「さと――んんっ」
そのまま自身の唇を、凛花のそれに重ねてきた。
瞬間、桃が凛花の口の中に入ってくる。
ごくん……と、何とか飲み込むが、もう味など分からなかった。
「さ、悟さん……っ、何を――っ」
凛花が慌てて五条から距離を取ろうとするが、五条がそれを許す筈もなく――、
「ん? もう一ついる?」
そう言って、再び桃を口の中に入れると、唇を重ねてきた。
「……っ」
立て続けにされた「口移し」という予想外の五条の行動に、凛花が顔を一気に紅潮させる。
それから真っ赤な顔で、
「じ、自分で食べられますから……っ」
そう言って逃げようとするが、やはり腰をがっちり掴まれていて、逃げる事は出来なかった。
その時だった。
「凛花――」
不意に、五条の碧色の瞳と目が合った。
瞬間、知らず どきん……と、心の臓が鳴り響く。
あ……。
そう思った時には、既に手遅れだった。
気が付くと、凛花は五条からの口付けを受け入れていた。
「……ぁ……さと、る、さ……」
「凛花……」
優しく名を呼ばれ、凛花がぴくんっと肩を震わす。
そして、その大きな手で髪を撫でられると、もう完全に五条を拒むことは出来なかった。
ゆっくりと唇が離されると、その碧色の瞳の中に自分の姿が見えた。
その姿は、まるで「五条」に酔ったかの様に、その瞳が潤み、頬は桜色に染まっている。
今の五条には、自分がそう見えているのだと思うと、酷く恥ずかしく感じたが、何故か逃げたいとは思わなかった。
すると、五条はこつんっと額をくっ付けてきて、
「ねえ、凛花……俺達が婚約して、何年経ったと思う?」
「え……?」
突然そんな事を聞かれ、凛花がその深紅の瞳を見開く。
そんな凛花に、五条はくすっと笑みを浮かべ、
「――5年。5年も経つんだよ?」
「……そ、れは……」
五条とは、凛花が高校卒業と同時に婚約した。
けれど、3年前“あの事件”があったから凛花は――。
「ま、待って下さい。その話は……」
「もう、十分待ったよ。だから――」
そっと、五条の手が凛花の髪をひと房 掬うと、そのまま口付けを落とす。
それから、真っ直ぐに凛花を見つめ、
「――そろそろ、俺のお嫁さんになってよ」
それは――開けてはいけない、禁断の果実を開けた様な 気がした。
やっと、もう少しで……。
第1話終われるかも、しれない?(予定は未定)
2024.05.15